【#4】「この字、6ですか、0ですか」 ─ ある建設会社の事務室

目次

この話について

会社:山桜建設/社員28名/山あいの地方都市/公共工事6割・民間4割/社員の平均年齢51歳

困っていたこと

  • 職人が手書きした出面表が、月に200枚。総務経理がひとりで、月末に2日がかりで打ち込んでいる
  • 読めない字がある。現場名の書き方も人によって違う。問い合わせるにも、その職人はもう別の現場にいる
  • この紙が終わらないと、給与も締まらないし、どの現場にいくらかかったかも出ない

一 「この字、6ですか、0ですか」

1月の終わり、山桜建設の事務室は暖房が効きすぎていた。

外は雪だった。山あいの町なので、年に何度かは積もる。この日は朝から降っていて、5つある現場のうち3つが止まっていた。

谷さんの机の上に、紙の山があった。

B5の、罫線が印刷された用紙。上に名前を書く欄があり、下に31日分のマス目が並んでいる。ひと月ぶんの出面表——誰がどの現場に何日入ったかを書く紙だ。

「200枚あります」

谷さんは、そう言って1枚を手に取った。総務経理の谷さん、55歳。この会社で、給与と請求と支払いをやっている人だ。

「今日から2日、これにかかります」

わたしは、その隣に座らせてもらった。パイプ椅子を引き寄せて、ノートPCは開かず、方眼のメモ帳を出す。

谷さんの手順は、単純だった。

  1. 紙を1枚取る
  2. 名前を見る
  3. マス目に書かれた現場名と、その日の作業時間を読む
  4. パソコンの表に打ち込む
  5. 次の紙を取る

単純だが、速くはなかった。

1枚に、2分から3分。時々、手が止まる。

「あー……」

10枚目で、谷さんが唸った。紙を目の高さまで持ち上げて、蛍光灯にかざしている。

「どうしました」

「これ」

見せてもらった。マス目の中に、鉛筆で数字が書いてある。

6

いや、0かもしれない。上の方がわずかに開いているが、書いた人の癖なのか、閉じ損ねたのか分からない。

「6ですか、0ですか」

「分からないんですよ」谷さんは言った。「6時間なら半日、0時間なら来てない日。まったく違うので」

「聞けませんか」

「聞けます。聞けますけど」

谷さんは、時計を見た。午後2時だった。

「この人、いま白鳥町の現場です。電話しても、たぶん出られません。重機に乗ってるので」

「夕方なら」

「夕方は、こっちが別のことをやってます」

谷さんは、その紙を脇に寄せた。

「保留の山です。だいたい毎月、20枚くらい出ます」

二 200枚

その日、谷さんは6時間で78枚を処理した。保留が14枚。

2日目、残りを片づけて、保留の14枚のうち9枚を電話で確認した。5枚は、結局その人に会えなかった。

「この5枚は、どうするんですか」

「わたしが決めます」

「決める?」

「日報を見て、その日その現場が動いていたかを見て、たぶんこうだろう、で入れます」

谷さんは、少し困った顔をした。

「よくないのは分かってます。でも、給与の締めが10日なので」

わたしは、時間を測っていた。

  • 1か月ぶん200枚の入力:15時間50分
  • そのうち、判読と確認にかかった時間:4時間20分

そして、もう一つ分かったことがある。

打ち間違いが、毎月出ている。

去年1年で、職人や協力会社から「給料が違う」という申し出が7件あった。7件とも、原因は入力の間違いだった。数字の読み違いが4件、行のずれが3件。

「これ、言ってきてくれる人はいいんです」谷さんは言った。「言ってこない人もいるので」

「言ってこない場合は」

「気づかれてないか、言いにくいかでしょうね」

その言葉が、あとで効いてくる。

その週の後半、わたしは現場に出て、この紙が書かれるところを見せてもらった。

白鳥町の擁壁の現場だった。夕方の4時半、作業が終わって、職人たちが道具を軽トラックに積んでいた。

土工の親方が、車のボンネットの上に紙を広げた。B5の出面表だ。四つ折りにされていて、折り目が白くなっていた。

ポケットから短くなった鉛筆を出す。手袋を外した手は、粉塵で灰色になっていた。

親方は、その手で、マス目に数字を書いた。

「親方、これ、毎日書くんですか」

「毎日は書かん」親方は笑った。「3日か4日に一遍かな。まとめて書く」

「覚えていますか」

「覚えとるよ。……たまに間違うけど」

親方は、書き終わった紙をまた四つ折りにして、車のダッシュボードに置いた。ダッシュボードには、同じような紙が何枚か重なっていた。

「これ、月末に阿部くんに渡すの」

「途中で無くなったりは」

「するよ」親方は、あっけらかんと言った。「風で飛んだり、雨で濡れたり。この前は、コンビニで落とした」

「そういうときは」

「思い出して書き直す」

わたしは、事務所に戻って、この話を谷さんにした。

谷さんは、驚かなかった。

「知ってます」

「ご存じでしたか」

「たまに、濡れて字がにじんでるのが来ますから」谷さんは言った。「あと、鉛筆が薄くて読めないのも」

「それも、保留の山に?」

「行きます」

わたしは、200枚をひととおり見せてもらった。書き方が、人によってまったく違った。

  • 現場名を「保育園」とだけ書く人
  • 「みどり保育園外壁」と正式名で書く人
  • 「保育園さん」と書く人
  • 現場名を書かず、番号だけ書く人(その番号は、その人の頭の中にしかない)
  • 時間を「8」と書く人、「8h」と書く人、「1.0」と書く人(1人工という意味だった)

「これ、全部読めるんですか」

「読めます」谷さんは、あっさり言った。「10年見てるので。誰がどう書くかを覚えてるんです」

わたしは、その一言をノートに書いた。

前の会社でも、同じ言葉を何度も聞いた。そのたびに思う。覚えているから回っている、というのは、その人が休めないということだ。

三 「機械に読ませるのが、怖いんです」

3日目、わたしは谷さんに切り出した。

「谷さん。この紙を、写真に撮って、機械に読ませることができます」

谷さんの手が、止まった。

「……読めるんですか、これが」

「かなり読めます。全部ではありません」

「全部じゃないんですね」

「全部ではありません。それが大事なところです」

谷さんは、しばらく紙の山を見ていた。それから、はっきりと言った。

「怖いです」

「はい」

「機械が読み間違えたら、誰かの給料が減るんですよね」

「そうなります」

「わたし、それが怖いんです」谷さんは言った。「自分が間違えるのも怖いですけど、それは自分の責任なので。でも、機械が間違えたのを、わたしが気づかずに通したら——」

そこで、言葉が止まった。

わたしは、押さなかった。

「谷さん。今日は、置き換える提案はしません」

「え」

「まず、測らせてください。機械がどれくらい間違えるかを、実際に見てから決めましょう」

その日の夜、わたしは200枚のうち50枚を選んで、AIに読ませた。谷さんが打ち込んだ結果があるので、答え合わせができる。

結果は、こうだった。

  • 名前:50枚すべて正解
  • 現場名:43枚正解、7枚が誤り
  • 日ごとの数字:1,412マスのうち1,377マス正解、35マスが誤り

正解率は97.5%だった。

だが、わたしが注目したのは、そこではなかった。

間違えた35マスのうち、31マスは「読みにくい字」だった。 つまり、人間が見ても迷う字だ。谷さんが「保留」にしたのと、ほぼ同じ場所だった。

残りの4マスは、はっきり書いてあるのに間違えていた。これがいちばん危ない。

わたしは、その4マスを拡大して、谷さんに見せた。

「谷さん。これ、何と読めますか」

「8ですね」

「機械は、3と読みました」

谷さんの顔が、こわばった。

「これ、はっきり8ですよ」

「はっきり8です」

「なんで間違えるんですか」

「分かりません」わたしは正直に言った。「機械は、なぜそう読んだかを説明できません。そして、間違えたことにも気づいていません」

谷さんは、しばらくその画面を見ていた。

「……それが、いちばん怖いです」

「はい」

「読めなかったって言ってくれるなら、まだいいんです。わたしが見ればいいので。でも、自信満々で間違えるのが、いちばん怖い」

わたしは、その一言をノートに書いた。

道具の設計が、そこで決まった。問題は精度ではない。間違いに気づける形になっているかどうかだ。

そして現場名の誤り7枚は、AIが勝手にまとめていた。「保育園」と「みどり保育園外壁」を同じものと判断したのは正しかったが、「白鳥町」と「白鳥町第2」を同じにしていた。これは別の現場だ。

篠原さんに見せると、即座に言われた。

「これはだめだ。現場が違えば、原価が違う」

わたしは、前の年の春に同じことを言われたのを思い出した。あのとき篠原さんは、ウレタン防水とシート防水を同じ棚に入れたAIに、同じ顔をしていた。

機械は、同じ間違いを繰り返す。 名前が似ていれば、寄せようとする。

だから、寄せさせない。

四 全部読ませない

翌日、わたしは谷さんに、測った結果を持っていった。

「機械は、50枚のうち7枚で現場名を間違えました。数字は1,412マス中35マス間違えました」

谷さんは、その数字を見て、少し青くなった。

「35も間違えるんですか」

「間違えます」

「じゃあ、だめじゃないですか」

「はい。このままでは、だめです」

わたしは、次の紙を出した。

「なので、こうします。全部を読ませません」

「読ませない?」

「機械には、自信のあるものだけ答えてもらいます。少しでも迷ったら、『読めませんでした』と言わせます」

谷さんは、意味が分かりかねる顔をした。

「読めなかったら、どうなるんですか」

「空欄になります。そこは、谷さんが見ます」

「……それ、結局わたしが見るんですよね」

「見ます。でも、200枚ぜんぶではなく、迷ったところだけです」

わたしは、その場でやり方を変えて、もう一度50枚を読ませた。

今度は、迷ったマスを空欄にさせた。

  • 自動で埋まったマス:1,268マス(うち誤り2マス)
  • 空欄になったマス:144マス

144マスは、谷さんが目で見る。50枚あたり144マスなので、200枚なら576マス。1マス5秒として、48分だ。

「谷さん。この144マスを見ていただけますか」

谷さんは、画面を見た。空欄のところが黄色く光っている。

「これ、押すと何が出るんですか」

「押してみてください」

谷さんがクリックすると、画面の右側に元の紙の写真が出た。その部分だけが拡大されている。

例の、6か0か分からない字だった。

「あ」

谷さんは、その写真をじっと見た。

「これ、6ですね」

「分かるんですか」

「分かります。この人、6を書くとき、最後にちょっと跳ねるんです」

わたしは、なにも言えなかった。

「10年見てるので」谷さんは、当たり前のように言った。

五 「数えるのは機械、決めるのは谷さん」

道具の形が決まった。

  1. 現場か事務所で、出面表をスマートフォンで撮る
  2. 機械が読む。迷ったところは空欄にする
  3. 空欄だけが黄色く出る。押すと、元の紙の写真が拡大で出る
  4. 谷さんが見て、決める
  5. 確定したら、給与の表と、現場ごとの労務費の表に、同時に入る

作り方は、いつもどおりにした。半分しか動かないものを、毎日見せる。

初日の版は、名前と現場名しか読めなかった。

「日にちは?」

「明日やります。谷さん、この空欄の色、見やすいですか」

「もう少し濃くしてください。わたし、目が悪いので」

3日目、谷さんが言った。

「これ、間違いを直したら、機械は覚えますか」

いい質問だった。

「同じ人の同じ字については、覚えさせられます」

「じゃあ、覚えさせてください。うちの職人、20年同じ字を書いてる人ばかりなので」

そのとおりだった。書き癖は人ごとに一定で、しかも変わらない。人ごとに「この人の6はこう書く」を溜めていくと、空欄が減っていった。

  • 1か月目:空欄576マス
  • 2か月目:空欄312マス
  • 3か月目:空欄188マス

この「覚えさせる」作業は、谷さんが自分でやるようになった。

やり方は簡単だ。空欄を埋めるときに、その人の字を1つ登録しておく。3か月で、登録された字は412個になった。

「谷さん、これ、面倒じゃないですか」

「面倒じゃないです」谷さんは言った。「むしろ、ちょっと楽しいです」

「楽しい」

「この人はこう書く、っていうのを、いままで自分の頭に入れてたので。それが外に出ていくのが、なんというか」

谷さんは、少し考えてから言った。

「荷物が減っていく感じです」

わたしは、その一言をノートに書いた。

属人化という言葉は、責めるときに使われることが多い。だが、抱えている本人にとっては、ただの荷物なのだと思う。降ろしたくないのではなく、降ろす場所がなかっただけだ。

篠原さんからも、直しが入った。

「現場名は、絶対に寄せないで。全部そのまま出して、こっちで選ばせて」

「選ぶ手間が増えませんか」

「増えていい。間違った現場に人工が乗るほうが、よっぽど怖い」

だから、現場名は候補を出すだけにした。「白鳥町」と書かれていたら、「白鳥町」「白鳥町第2」の両方を出して、人が選ぶ。

12日間で、直しは29回入った。

そして、いちばん大事な線引きは、谷さん自身が言葉にした。

3週目のある日、谷さんが画面を見ながら、こう言った。

「わたし、これなら大丈夫です」

「そうですか」

「だって、決めてるのはわたしですもんね」

「はい」

「機械は数えてるだけで、この字が6か0かを決めてるのはわたしです。それなら、間違えても自分の責任なので」

わたしは、その一言をノートに書いた。

あとで読み返すことになる1行だった。人が恐れていたのは、機械の精度ではなく、責任の所在だった。

六 3件

2月の月末、新しいやり方で1か月を回した。

結果は、こうだった。

  • 200枚の入力:15時間50分 → 3時間10分
  • 谷さんが見た空欄:188マス(約25分)
  • 残り時間は、写真を撮る作業と、確認の電話

給与の締めは、毎月10日から5日になった。

そして、思っていなかったことが起きた。

3月に入って、谷さんがわたしを呼んだ。顔が青かった。

「上田さん。ちょっと、これ」

画面に、表が出ていた。出面表から起こした日数と、協力会社から届いた請求書の日数を、並べたものだった。

これは、道具を作っているときに篠原さんが「ついでに出しておいて」と言った表だった。

「合ってないところがあるんです」

「何件ですか」

「11件です。……でも、そのうち3件が」

谷さんは、そこで詰まった。

「うちが、少なく払ってました」

わたしは、画面を見た。

協力会社の職人が「4日入った」と書いている月に、山桜建設が3日ぶんしか払っていない。同じことが、去年から3件あった。合計で18万円ほどだった。

「これ、いつからですか」

「去年の8月と、10月と、12月です」

「先方は、何か言ってきましたか」

「何も」

谷さんは、うつむいた。

「言ってこないんです。うち、元請けなので」

その日の午後、古賀さんに報告した。

古賀さんは、表を見て、すぐに立ち上がった。

「谷さん、これ、今日中に振り込めますか」

「できます」

「利息は付けられないけど、謝りに行きます。篠原さん、一緒に来てください」

翌日、古賀さんと篠原さんは、3社に頭を下げに行った。

土工の親方のところには、わたしも同行させてもらった。

親方の会社は、事務所と資材置き場が一緒になった、平屋の建物だった。ストーブの前に、犬が寝ていた。

古賀さんは、名刺入れから封筒を出して、机に置いた。

「親方。去年の8月と10月と12月なんですが、うちの計算が間違っていました」

「なんの話?」

「出面が、3日ぶん足りませんでした。合わせて18万4千円です」

親方は、封筒を見て、それから古賀さんを見た。

「……そんなん、ええのに」

「よくないです」

「いや、こっちも数えてないもん。1日や2日、どうってことないよ」

古賀さんは、頭を下げた。篠原さんも下げた。

親方は、慌てた様子で立ち上がった。

「やめてよ、社長。あんたのお父さんに拾ってもらった身なんだから」

そして、封筒を手に取って、しばらく持っていた。

「……でも、まあ、貰っとくわ。あいつらのぶんだからな」

あいつら、というのは、親方のところの若い職人2人のことだった。

帰りの車の中で、古賀さんはハンドルを握ったまま、しばらく黙っていた。

「上田さん」

「はい」

「あの人、『ええのに』って言うんですよ」

「はい」

「うちが少なく払ってたのに」

古賀さんは、椅子に深く座った。

「ああいう人たちに支えられてるんだな、って。恥ずかしかったです」

その夜、わたしはノートに、その言葉を書いた。

わたしがやったのは、表を1枚出しただけだ。18万4千円を見つけたのは機械で、頭を下げたのは古賀さんと篠原さんだった。

それでも、一つだけ確かなことがある。この10年、誰にも見えていなかった。 見えないものは、直しようがない。

七 紙を、持って帰らなくなる

3月の半ば、山桜建設に寄った。

雪は溶けていて、川沿いの桜の枝に、まだ固い蕾がついていた。1年前、わたしが初めてここへ来たときは、その花が散っているところだった。

事務室で、谷さんの机を見た。紙の山がなかった。

「もう終わったんですか」

「3日前に終わりました」谷さんは言った。「今月は2時間40分でした」

「早いですね」

「空欄が、また減ったんです。今月は141でした」

そして、谷さんは笑った。

「わたし、今月、月末に美容院に行きました」

「美容院」

「10年ぶりです。月末って、いつも髪がぼさぼさだったので」

阿部くんにも会った。現場から戻ったところで、まだヘルメットを持っていた。

「阿部さん、出面表はどうしていますか」

「僕、もう会社に持って帰ってないです」

阿部くんは、スマートフォンを出した。

「現場で、その日の終わりに、親方に見せてもらって撮ります。その場で送ります」

「間違いはありませんか」

「あります。あるんですけど、その場なら聞けるんですよ」

阿部くんは、画面をスクロールした。

「前は、紙を月末にまとめて持って帰ってたので、谷さんが読めない字を見つけたときには、もう1か月前の話になってて。誰も覚えてないんです」

「いまは」

「いまは、その日に『親方、これ6ですか』って聞けます」

わたしは、それを聞いて、少し嬉しくなった。200枚を速く打つ話ではなくなっている。

古賀さんとも話した。

「上田さん。今回は、何を入れたんでしたっけ」

「出面表を写真で撮って、読ませているだけです」

古賀さんは、もう驚かなかった。

「谷の月末が2日から半日になって、給料の締めが5日早くなって、払い漏れが3件見つかりました」

「はい」

「それと、もう一つ」

古賀さんは、パソコンを開いた。画面に、現場ごとの表が出ていた。

「これ、うちの5つの現場に、先月いくら人件費がかかったかです」

「出るようになりましたね」

「出るようになりました。うち、この数字を、創業52年で初めて月内に見ました」

古賀さんは、画面を指でなぞった。

「白鳥町の現場、実行予算より人件費が2割多いです」

「はい」

「でも」

古賀さんは、顔を上げた。

「材料費と外注費が、まだ出てないんですよ。だから、この現場が赤字なのかどうかは、まだ分からない」

わたしはうなずいた。

「その話を、次にしましょう」

「次はいつ来ていただけますか」

「4月に」

古賀さんは、少し笑った。

「1年ですね」

残ったもの。 出面表は3時間で終わるようになったが、材料費は納品書の束のまま、外注費は請求書のまま、月末に手で振り分けている。だから現場が儲かったかどうかは、いまも竣工の2か月後にしか分からない。

帰り際、谷さんが玄関まで出てきた。手に、B5の紙を1枚持っていた。あの出面表だ。

「上田さん。これ、なくならないんですね」

「なくなりませんね」

「機械にするなら、職人さんにスマホで入れてもらったほうが早いんじゃないかって、言われたんです。うちの若い子に」

「谷さんは、どう思いますか」

谷さんは、紙を見た。鉛筆で、太い字が書いてある。

「わたしは、これでいいと思うんです」

「なぜですか」

「この人たち、朝5時に起きて、雪の日も現場に行って、夕方に手が真っ黒なまま、これを書いてるので」

谷さんは、紙をそっと机に置いた。

「書くのを変えろって、わたしからは言えません」

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