【#3】「朝5時に電話で言われても、覚えてられんのよ」 ─ ある建設会社の朝

目次

この話について

会社:山桜建設/社員28名/山あいの地方都市/公共工事6割・民間4割/社員の平均年齢51歳

困っていたこと

  • 5つの現場が同時に動いている。明日どこに誰が行くかは、工務部長の頭と電話の中にしかない
  • 雨が1日降ると、5現場ぶんの段取りが崩れる。組み直せる人が一人しかいない
  • 職人が現場に来たのに、前工程が終わっていない。手待ちが、そのまま金になって消えている

一 「朝5時に電話で言われても、覚えてられんのよ」

10月。3度目に山桜建設へ来たとき、朝の6時40分だった。

山あいの朝は冷えていて、川から霧が上がっていた。まだ暗い駐車場に、軽トラックが3台と、篠原さんの車が停まっていた。

事務所の明かりがついている。中に入ると、篠原さんが電話をしていた。

「うん、うん。……いや、それは無理だ。生コンが10時に入るから」

受話器を置いた。3秒で、また鳴った。

「はい、山桜。……ああ、親方。ええ、今日は雨降らんでしょう。……そう、9時から。いや、8時半に来てもらったほうが」

置いた。また鳴った。

「はい。……材料が? 何時になるの。……昼過ぎか。じゃあ午前中は別のことをやってもらうしかないな」

わたしは、数え始めた。

6時40分から8時までの80分間で、篠原さんが受けた電話は18本だった。かけた電話が7本。

8時、篠原さんは受話器を置いて、ヘルメットを持った。

「行くよ」

「どこへですか」

「現場。5つある」

車の助手席で、篠原さんに聞いた。

「篠原さん。明日の段取りは、いま誰が知っていますか」

「わたし」

「紙になっていますか」

「なってない」

篠原さんは、ハンドルを切りながら言った。

「ホワイトボードには書いてあるよ。でもあれは、大まかなやつ。細かいのは、ここ」

篠原さんは、自分のこめかみを指した。

「明日、誰がどこに行くか。何時に材料が入るか。ユンボがどっちの現場にいるか。雨が降ったら、どれをどこにずらすか」

「それを、朝の電話で伝えているんですね」

「そう」

「昨日の夜には、決まっているんですか」

「決まってる」篠原さんは言った。「決まってるけど、伝えてない。夜中に電話するわけにいかんからね」

二 朝の30分

わたしは、3週間かけて、朝の時間を測ることにした。

測ったのは、たった一つだけだ。

予定していた作業の開始時刻と、実際に始められた時刻。

5つの現場をまわり、職人と話し、作業日誌に書き込んでいった。阿部くんが担当している3つの現場は、阿部くんにも記録してもらった。

1週目で、はっきりと形が見えた。

  • 予定どおり始まった日:52%
  • 30分以上遅れて始まった日:31%
  • 午前中まるまる動けなかった日:17%

遅れの理由は、いくつかに寄っていった。

  1. 前の工程が終わっていない(型枠が外れていないのに、次の職人が来ている)
  2. 材料が届いていない(届く時間を、現場が知らない)
  3. 重機が別の現場にいる(今日はこっちに来ると思っていた)
  4. 人数が足りない/多すぎる(3人で足りる日に5人来ている)
  5. 雨で中止なのに、現場まで来てしまった

5番目が、いちばん多かった。

「これ、いちばん腹が立つやつだよ」

土工の親方が言った。60代の、日に焼けた人だった。

「朝5時に起きて、道具積んで、40分走って来るわけ。着いたら誰もいない。電話したら『今日は中止です』って」

「連絡は来ませんか」

「篠原さんは、ちゃんと電話くれるよ。でも朝の6時とか6時半でしょう。その時間、うちはもう車の中なの」

親方は、笑った。

「あと、聞いてない人もいる。うちは若いのが2人いるんだけど、あいつらには俺が伝えるわけ。俺が忘れると、あいつらが無駄足になる」

2週目の火曜日、その現場に立ち会った。

朝8時、住宅団地の擁壁の現場に、土工の職人が3人来ていた。ところが、前の日に打ったコンクリートの型枠が、まだ外れていない。型枠を外すのは別の業者で、その業者は午後に来る予定だった。

3人は、軽トラックの荷台に腰かけて、缶コーヒーを飲んでいた。

9時になった。誰も動いていない。

「これ、どうするんですか」

「待つしかないな」親方は言った。「帰ってもいいんだけど、帰ったらまた来るのに40分かかるから」

10時20分に、篠原さんが現場に着いた。事情を知って、すぐに型枠屋に電話をした。型枠屋は別の現場にいて、来られるのは3時だと言った。

篠原さんは、その場で段取りを組み替えた。3人には別の現場の残作業に回ってもらうことにして、そちらの職人を1人こちらへ寄こした。

昼までに、現場は動き出した。

だが、その日の午前中、3人ぶんの手間賃は消えていた。

「篠原さん。これ、防げましたか」

「防げたよ」篠原さんは、ため息をついた。「昨日の夕方に、型枠屋に電話しとけばよかった。分かってたのに、電話する時間がなかった」

わたしは、その3週間で、無駄になった時間を数えた。

  • 手待ち(現場に来たのに作業を始められなかった時間):のべ38時間
  • 完全な空振り(来たのに作業がなく帰った):7人日

篠原さんの単価で計算すると、3週間でおよそ34万円だった。

年に換算すると、500万円を超える。

さらに、それとは別に、重機のレンタルの延長が去年3件あった。段取りがずれて、返す日に間に合わなかったぶんだ。合わせて58万円。

三 「電話じゃないと、伝わらんのよ」

数字を持って、篠原さんに相談した。

「篠原さん。明日の段取りを、前の日の夕方に、みんなに配りませんか」

「配るって、どうやって」

「文字で。スマートフォンに」

篠原さんの反応は、はっきりしていた。

「無理だよ」

「無理ですか」

「うちの職人、平均で58だよ。メールなんか見ないよ」

「LINEはどうですか」

「LINEは……まあ、みんなやってるけど」

篠原さんは、そこで少し考えて、それから首を振った。

「でもね、上田さん。電話じゃないと、伝わらんのよ」

「といいますと」

「文字で送ったって、読んだかどうか分からんでしょう。電話なら、相手が『はい』って言うから」

「返事が要るということですね」

「そう。うちは、返事をもらわないと動けない仕事なの。朝に人が来なかったら、その日の工事が止まるんだから」

これは、正しい。

わたしは前の会社で、社内の連絡を全部チャットに移したことがある。あのときは、それでよかった。同じ会社の人間で、全員がパソコンの前にいて、読まなければ自分が困る立場だったからだ。

ここは違う。相手は協力会社の職人で、朝は車の中にいて、読まなくても自分は困らない。困るのは山桜建設のほうだ。

その夜、ノートに「18本」とだけ書いて、しばらく眺めていた。

電話をやめさせようとして、断られた。断られて当然だ、と思った。

だが、一つだけ引っかかっていた。18本は、ぜんぶ同じ種類の電話なのだろうか。

翌朝、わたしはもう一度、篠原さんの電話を数えた。今度は中身も書いた。

18本を分けると、こうなった。

  • 今日の予定を伝える(何時にどこへ、何人で):11本
  • 確認の折り返し(本当に今日でいいか、雨は大丈夫か):4本
  • その場で判断が要るもの(材料が遅れる、人が足りない、施主から言われた):3本

11本は、答えの決まっている連絡だった。

3本は、篠原さんにしか決められないことだった。

わたしは、その紙を持って篠原さんのところへ行った。

「篠原さん。この11本を、なくしたいんです」

篠原さんは、紙を見た。

「……この分け方は、そのとおりだね」

「残りの7本は、電話のままでいいと思います。むしろ、電話のほうがいいと思います」

「7本ならね」篠原さんは言った。「7本なら、車の中でも受けられる」

その日の午後、土工の親方に会いに行った。現場で、鉄筋を組んでいる横で話を聞いた。

「親方。明日の予定を、前の日の夕方にLINEで送るとしたら、どうですか」

親方は、手を止めた。

「文字で?」

「文字で。集合時間と、場所と、人数と、材料が入るかどうか」

親方は、少し考えて、それから意外なことを言った。

「そっちのほうがいいわ」

「いいですか」

「朝5時に電話で言われても、覚えてられんのよ」

親方は、軍手を外した。

「こっちは飯食ってるか、車に道具積んでるかしてるの。片手で電話持って『はい、はい』って言うけど、走り出したら忘れる。あと、うちの若いのに伝えるでしょう。俺が伝言すると、間違うの」

「間違いますか」

「間違う。この前も、8時半って言われたのを9時って伝えて、怒られた」

親方は、ポケットからスマートフォンを出した。画面にひびが入っていた。

「これ、孫と連絡取るのに使ってるからね。LINEなら読める。文字を大きくしてもらってるから」

「読んだ返事は、できますか」

「スタンプでいいなら押せる。あの、猫がお辞儀するやつ」

わたしは、その場でノートに書いた。

返事はスタンプでいい。

篠原さんが欲しかったのは丁寧な返信ではなく、「読んだ」という事実だけだった。

四 うちは、何日かけているのか

段取りを前日に配るには、一つ足りないものがあった。

明日、その作業が終わるのかどうかが分からないと、次の日の配置が組めない。

篠原さんはそれを、経験で読んでいた。「この面積の型枠なら、3人で2日」。頭の中に、自社の職人の速さが入っている。

だが、その数字はどこにも書かれていない。

「篠原さん。うちの職人が、どの工事を何人で何日でやっているか。それ、分かりますか」

「分かるよ」

「紙にありますか」

「ない」

またここだ、とわたしは思った。

そこで、前の月に作ったものを使うことにした。

6月に、去年1年ぶんの日報を読み込んで、1日1行の表にしてあった。あのときは「契約に無い作業をした日」を探すために作ったものだ。

それを、別の目的で使う。

工種ごとに、うちが実際に何人で何日かけているかを数える。

AIに数えさせた。半日で表が出た。

篠原さんは、その表を見て、すぐに1か所を指した。

「これ、おかしい」

「どこがですか」

「外壁の下地。4.5日になってる。そんなにかかるわけない」

わたしは、元の日報をさかのぼった。

原因はすぐに分かった。その工事の期間中に、雨で止まった日が2日あった。AIは「着手から完了まで何日か」を数えていたので、動いていない日も日数に入れていた。

「雨の日は、動いてないんだよ」篠原さんは言った。「カレンダーの日数と、働いた日数は違う」

わたしは、その場でやり方を変えた。

日数ではなく、日報に人数が書かれている日だけを数える。雨天中止の日は除く。そうすると、外壁の下地は2.5日になった。

「これなら合ってる」

そこから、篠原さんの直しが始まった。

  • 「この工種は、うちは2人組でしかやらない。1人の日は応援に行ってるだけ」
  • 「この現場は山側だから、冬は日が短くて1割よけいにかかる」
  • 「これは若い衆だけの日。うちの標準にはしないで」

3日間で、41工種の「うちの日数」ができあがった。

古賀さんが、その表を見て、しばらく黙っていた。

「上田さん。これ、歩掛りですよね」

「そう呼ぶんですね」

「3年前に300万円で買ったソフトに、これが入ってたんです」古賀さんは言った。「でも、うちの数字じゃなかった。標準の数字だったんです」

「はい」

「あれを、うちの実績で作れるとは思っていませんでした」

「日報が2,000枚あったからです」わたしは言った。「書いていたのは、阿部さんたちです」

五 明日の1枚

できたものは、紙1枚と変わらない。

夕方5時に、翌日の配置の下書きが出る。

  • どの現場に
  • 誰が(何人)
  • 何時に集合して
  • 何の作業をして
  • 材料や重機が入るか

下書きを作るのはAIだ。工程の残りと、41工種の「うちの日数」と、天気予報から組む。

だが、送るのは篠原さんだ。

篠原さんが画面を見て、直して、最後にボタンを押す。押すと、現場ごとのLINEのグループに文章が流れる。

「これ、勝手に送られるようにはしないの」篠原さんが聞いた。

「しません」

「なんで」

「間違っていたときに、誰が責任を取るか分からなくなるからです」わたしは言った。「送ったのは篠原さんだ、と分かっているほうが、現場は安心すると思います」

篠原さんは、うなずいた。

「それでいい。わたしが送ったなら、わたしが直せる」

作り方は、いつもどおりにした。半分しか動かないものを、毎日見せる。

初日の版は、1つの現場ぶんしか出せなかった。

「ほかの4つは?」

「明日やります。篠原さん、この並び順、これでいいですか」

「集合時間を上にして。職人が見るのは、まずそこだから」

2日目、篠原さんが言った。

「材料が入る時間、これ書かないほうがいい」

「なぜですか」

「業者が遅れたときに、うちが嘘をついたことになるから。『午前中に入る予定』くらいにして」

3日目、阿部くんが横から言った。

「雨の可能性、書けませんか」

「明日の降水確率ですか」

「それもですけど……中止かどうかを、朝5時じゃなくて前の日に言えたら、って親方が言ってて」

これは難しかった。前の日の夕方に「明日は中止」と決めるのは、天気が外れたときに1日を無駄にする。

篠原さんが、答えを出した。

「『雨なら中止』と書いておけばいい」

「といいますと」

「明日の朝6時に、うちが判断して連絡します。降水確率が60%を超えてたら、その1行を足すの。そうすれば、親方は『明日は微妙だな』と思って寝られる」

そのとおりにした。

17日間で、篠原さんの直しは34回入った。谷さんからも1つ入った。

「これ、月末にまとめて見られますか」

「何に使いますか」

「誰がどの現場に何日入ったかが、ここに出るので」谷さんは言った。「出面表と突き合わせられたら、わたしの月末が楽になります」

わたしは、その一言をノートに書いた。それは、次の話になる。

六 スタンプが返ってくる

運用が始まって、最初の1週間は、静かだった。

夕方5時20分に篠原さんが送る。既読はつく。だが、返事はほとんど来なかった。

「読んでるのかね」篠原さんは、少し不安そうだった。

8日目の朝、変化が起きた。

土工の親方から、篠原さんに電話がかかってきた。

「篠原さん、明日の紙、来てないよ」

篠原さんは、慌ててスマートフォンを見た。前の日、現場を3つ回って戻りが遅くなり、送信ボタンを押し忘れていた。

「悪い、いま送る」

電話を切った篠原さんが、わたしのほうを見た。

「催促されたよ」

その日から、返事が来るようになった。ほとんどが、猫がお辞儀するスタンプだった。

10日目、篠原さんの朝の電話を、もう一度数えた。

  • 朝6時40分から8時までの電話:18本 → 6本

減った12本は、予定を伝える電話だった。残った6本のうち4本は、その場で判断が要るものだった。

「上田さん」篠原さんが言った。「わたし、今朝、コーヒー飲んだよ」

「コーヒーですか」

「20年ぶりくらいかな。朝、事務所で座って飲んだの」

面白いことも起きた。

送り始めて2週目、型枠屋の若い職人から、篠原さんに直接LINEが来た。

> あしたの朝、みどり保育園の材料、10時って書いてありますけど、9時に着くと思います。うちが取りに行くので。

篠原さんは、それを見て驚いていた。

「この子、わたしと喋ったことないよ」

「電話では?」

「電話は親方としかしない。若い衆と直接話すことは、ほとんどないの」

その日、篠原さんは返事を打った。指1本で、時間をかけて。

> 助かります。9時に直してください。

「上田さん。これ、返信ってどう打つの」

「そのままで大丈夫です」

「変な日本語になってない?」

「なっていません」

篠原さんは、送信ボタンを押した。そして、少し照れたように言った。

「わたし、LINEって家族としかやったことないんだよ」

12日目には、阿部くんが自分で下書きを直し始めた。

「篠原さん、明日の給食室のやつ、僕が組んでいいですか」

「組んでみな」

阿部くんが組んだ配置を、篠原さんが見た。赤が3か所入った。

「ここ、人が多い。3人で足りる」

「4人だと早く終わりませんか」

「終わらない。あの現場、材料を置く場所がないんだよ。人が増えると邪魔になるだけ」

阿部くんは、それをメモした。

わたしは離れた席で聞いていた。これは、教えている。 だが、誰も「教える」とは言っていない。明日の紙を1枚組んで、赤を入れてもらっているだけだ。

七 「明日の紙、来てるか」

2か月後、12月の初めに山桜建設へ寄った。

山はもう茶色くなっていて、朝は霜が降りていた。

3週間ぶんを、もう一度測らせてもらった。

  • 予定どおり始まった日:52% → 84%
  • 手待ち:のべ38時間 → のべ9時間
  • 空振り:7人日 → 1人日

3週間で34万円だったものが、8万円になっていた。年に換算すると、400万円ちかくが現場に戻った計算になる。

重機のレンタル延長は、その2か月間ゼロだった。

古賀さんに報告に行った。

「で、これ、何を入れたんでしたっけ」

「朝の一覧を、1枚出しているだけです」

古賀さんは、笑い出した。

「それで400万ですか」

「そこは、おまけだと思ってください」

「またそれですか」

「またそれです」

わたしは、紙をもう1枚出した。

「本題は、こっちです」

そこには、こう書いてあった。

  • 篠原さんの朝の電話:18本 → 6本
  • 篠原さんが最初の現場に着く時刻:9時20分 → 8時15分
  • 阿部くんが、翌日の配置を自分で組んだ回数:この2か月で18回

古賀さんは、3行目を長く見ていた。

「阿部が、組んでるんですか」

「篠原さんが赤を入れています。この2か月で、赤の数は9か所から3か所に減りました」

「それは……」

古賀さんは、そこで言葉を切った。目のあたりが少し赤くなっていた。

「すみません。うち、若いのが育たないと思ってたんです」

「はい」

「育たないんじゃなくて、教える時間がなかっただけなんですね」

わたしは、うなずいた。

「あと、教わる形がなかったんだと思います」

「形?」

「阿部さんは、篠原さんに『教えてください』とは言えませんでした。夜9時まで働く人には言えない、と本人が言っていました」わたしは言った。「でも、明日の紙を1枚組んで、直してもらうことはできました」

古賀さんは、しばらく黙っていた。

「うちの父はね」

そして、ぽつりと言った。

「わたしにも、教えてくれなかったんですよ。見て覚えろ、で」

「はい」

「わたしも、それしか知らないので。阿部にも同じことをしてました」

帰り際、篠原さんが玄関まで送ってくれた。外はもう暗くなっていた。

「上田さん。この前の話だけどね」

「はい」

「わたし、電話じゃないと伝わらんと思ってたでしょう」

「言われました」

「あれ、半分は本当なんだよ」篠原さんは言った。「でも半分は、自分が全部知ってないと不安だったんだと思う」

「そうですか」

「明日どこに誰が行くか、わたしだけが知ってる。それでずっと回してきたからね。……あれがなくなったら、自分の仕事が減るような気がしてた」

「減りましたか」

篠原さんは、首を横に振った。

「増えたよ。見積もりが、昼にできるようになった」

それは、いちばんいい報告だった。

残ったもの。 段取りは前の日に配れるようになったが、職人の出面表は、いまも手書きの紙で月に200枚ある。谷さんが月末に1枚ずつ打ち込んでいる。そして、その現場が儲かったかどうかは、いまも竣工の2か月後にしか分からない。

一つずつだ、と自分に言い聞かせた。

車に乗り込むとき、事務所から谷さんが出てきた。手に、茶封筒を持っていた。

「上田さん、これ」

中を見ると、B5の紙が入っていた。手書きの表で、名前と、日付と、現場名が並んでいる。数字の一つは、6なのか0なのか読めなかった。

「出面表です」谷さんは言った。「今月ぶん、200枚あります」

「200枚」

「わたし、これを毎月2日かけて打ってるんです」

谷さんは、封筒を胸の前で抱え直した。

「これが終わらないと、給料も出ないし、どの現場にいくらかかったかも、出ないんです」

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