この話について
会社:ホテル汐風/客室82室/予約経路は予約サイト4社・電話・自社サイト・旅行代理店のFAX
困っていたこと
- 予約サイトの通知メールを、人が読んで宿泊システムに手で打ち込んでいた。1日平均34件、繁忙期は60件超
- 打ち込む担当者は専任ではなく、同時にチェックインもしている
- 転記が遅れると、まだシステムに入っていない部屋が「空室」として売られる
- この1年で二重に売りかけた事故が3件、実際に売ってしまった事故が1件(差額と手土産で約4万円、口コミが1件)
一 冬の閑散期に、呼ばれた
冬の汐風は、静かだった。
海は鉛色で、風が強い。団体のバスは入らず、平日の稼働は5割を切る日もあるという。ロビーの隅では石油ストーブが小さく鳴っていて、その前に座った専務の原康孝さんは、去年の春に会ったときより、少しだけ姿勢が良くなったように見えた。
「今度は、閑散期のうちにお願いしたくて」
「賢いと思います」
「前の3回で分かったんです。忙しい時期に始めても、現場が付き合ってくれない」
1年足らずで、この人の言い方が変わってきていた。最初に会ったとき、原さんは「何をお願いすればいいのか分からない」と言っていた。次は「今度は電話をなんとかしてもらえませんか」だった。いまは、何を、いつやるかを自分で決めている。
今回、フロントの現場に入るのは久保なつみさんだ。見習いFDEとして、汐風に入るのは二度目になる。予約の受け口を5年間さわっていた人なので、この件に関してはわたしより詳しい。
「上田さん」バスを降りたところで、久保さんが言った。「今日は、わたしが先に喋っていいですか」
「どうぞ」
「たぶん、この件だけは、わたしのほうが怖さを知ってるので」
汐風には、予約の入り口が七つある。予約サイトが4社。それから電話、自社サイト、旅行代理店のFAX。
出口は一つだ。宿泊システム。 ここに入って初めて、その部屋は「売れた」ことになる。
七つの入り口から入ってきたものを、一つの出口に、人が手で運んでいる。運ぶ人が忙しければ、運ばれるまでの間、その部屋はどこにも売れていないことになっている。
二 30秒
現場に入った2日目の夕方、それは起きた。
フロント主任の坂井さんが、電話を切ってすぐ、宿泊システムの画面を開いた。44歳。汐風に12年いる。几帳面な人で、カウンターの下のペン立ては、いつも同じ向きに揃っている。
2月の第2土曜、海側のツインを1部屋。電話で予約を受けたところだった。
坂井さんが入力しようとしたとき、久保さんが横から声をかけた。
「坂井さん。それ、メール見ました?」
「え?」
坂井さんが受信箱を開くと、40分前に届いた予約サイトからの通知メールがあった。同じ日、同じ部屋タイプ、残り1室。
あと30秒で、同じ部屋を2回売るところだった。
坂井さんの顔から血の気が引いた。
「……あぶな」
「あぶないです」久保さんは静かに言った。「わたしも、2回やりかけました」
その夜、わたしたちは過去1年ぶんの記録をたどった。二重に売りかけて直前で気づいた事故が3件。実際に売ってしまった事故が1件。
その1件は、去年の8月だった。
「土曜でした」原さんは、思い出すのも嫌そうに話した。「チェックインが始まって、同じ部屋の鍵を2組に渡すところで気づいたんです。ご家族連れの方に、事情を説明して」
「移っていただいたんですか」
「近くの宿に電話をかけまくって、1軒だけ空いてました。車でお送りして、差額を持って、菓子折りを渡して。金額としては4万円くらいです」
原さんは、そこで一度言葉を切った。
「そのご家族、3年連続で来てくださってた方だったんですよ」
金額よりも、そのあと予約サイトに残った口コミ1件のほうが痛かった、と原さんは言った。
久保さんが、あとで教えてくれた。
「坂井さん、あの日、休みだったんですよ」
「え」
「入力したのは別の人です。でも坂井さん、自分が主任だからって、お客様のところに謝りに行ったのは自分なんです。それからですね、あの人が全部一人でやるようになったのは」
事故のあと、人は仕事を手放さなくなる。 手放したところで事故が起きたからだ。属人化は、たいてい、こういう形で深くなっていく。
「あれ以来、坂井には『必ずメールを確認してから入力しろ』と言ってあるんです」
「守られていますか」
原さんは、答えなかった。
三 9時間
3日目から5日目まで、わたしたちは予約が届いてから、システムに入るまでの時間を測ることにした。
方法は原始的だ。予約通知メールの受信時刻と、宿泊システムの登録時刻を、1件ずつ突き合わせる。
1日あたり平均34件。繁忙期は60件を超えるという。
結果はこうなった。
- 転記までの平均:2時間10分
- 最長:9時間(前夜に届いた予約が、翌朝まで入っていなかった)
- 1件あたりの転記作業:平均2分40秒
- 1日の転記作業の合計:約90分
- それとは別に、「どこまで入れたか」を確かめ直す時間:1日およそ30分
- 合わせて、1日およそ2時間
9時間。 その9時間のあいだ、その部屋は「空室」として売られ続けていた。
打ち込む時間より、厄介なものがあった。
予約は、待ってくれない。受信箱を開いているあいだにも次が届く。4社ぶんの受信箱を順に見て、宿泊システムを開いて、これはもう入れたか、を確かめる。入れたつもりで入っていないものと、入れたのにもう一度打ち込みかけたものが、両方あった。
「どこまでやったか、分からなくなるんです」坂井さんは言った。「1社ならまだいいんですけど、4つあるので。溜まってくると、上から見ていっても、どれが済んでるのか自信がなくなって」
「それで、どうするんですか」
「……全部、確かめ直します」
入り口が4つあると、進み具合は誰の頭の中にも収まらない。坂井さんが夜中に起きて確認していたのは、そのせいだった。
坂井さんの1日を、4日目に半日つきっきりで書き出してみた。
午前8時、夜勤からの引き継ぎ。8時半、前日の残りの転記。9時、チェックアウトが始まる。10時から11時のあいだに、精算とタクシーの手配で30回ほど呼ばれる。11時、団体の下見。12時、交代で昼。
午後1時、やっと受信箱を開く。ここで8件ほど溜まっている。4件入力したところで、電話。宴会の見積もりの相談で、15分。戻ってきて、また2件。3時、チェックインの準備。3時半、客が来る。
受信箱を最後に開いたのは、午後2時だった。
そこから翌朝8時半まで、18時間半のあいだに届いた予約は、誰にも触られない。
なぜ遅れるのか。坂井さんの隣に半日座っていれば、すぐに分かった。
坂井さんは転記の専任ではない。チェックインもする。電話も取る。館内の案内もする。宴会の下見に来た客を宴会場まで連れていく。予約メールが届くのは一日中、不規則にだ。夜中の2時に入ることもある。だから、手が空いた時間にまとめて入力する。まとめて入力するから、まとめて遅れる。
そして、転記そのものが速い作業ではなかった。
予約サイト4社の通知メールは、書式がばらばらだった。
1社目は、日付が「2月14日(土)」と書いてある。2社目は「02/14」。3社目は「14 Feb 2026」で、なぜか到着日と出発日の順番が逆に並ぶ。
部屋タイプの呼び名も違う。「ツイン」「TWN」「ツインルーム(海側)」。汐風の宿泊システムに登録されている名前は「海側ツインA」なので、どれもそのままでは入らない。
人数の書き方も、大人2名という社もあれば、「2A」と書く社もある。子どもの年齢区分に至っては、4社とも別々だった。
「これ、毎回読み替えてるんですか」
「慣れましたけどね」坂井さんは笑った。「新しく入った子には、まずこれを覚えてもらいます」
1年前に見た経理室と、同じ形だった。 4社の癖が、一人の頭の中に入っている。
そして、その頭の中身が、そのまま作業速度になっている。坂井さんが2分40秒でできることを、去年入ったパートの人にやってもらうと、6分かかった。だから結局、坂井さんがやる。
「坂井さん、これ、夜も気になりますか」
久保さんが聞くと、坂井さんは少し黙ってから言った。
「……なりますね」
四 「全部つないでしまえば」
6日目、わたしは原さんに、選択肢を三つ出した。
一つ目は、予約サイトと宿泊システムを自動でつなぐ仕組みを入れること。転記そのものがなくなる。ただし、汐風の宿泊システムは12年前のもので、外部とつなぐ窓口がない。入れ替えが要る。見積もりは数百万円になる。
「それは、無理ですね」原さんは即答した。
二つ目は、予約の受け口を減らすこと。4社のうち2社をやめる。手数料も減る。だが集客が落ちる。
「それも無理です。いま切ったら、冬を越せません」
三つ目を出す前に、久保さんが言った。
「上田さん、二つ目は最初から出さないほうがよかったです」
その日の帰り道で、わたしは理由を聞いた。
「経営者に『売上を捨てろ』って選択肢を見せると、この人は真面目だから、一晩考えちゃうんですよ。考えなくていいことを考えさせるのは、時間泥棒です」
「でも、判断材料は多いほうが」
「多いほうがいいのは、選べる人だけです」久保さんは言った。「専務、いま一人で全部決めてるんですよ。決めることを増やしちゃだめです」
その通りだった。
社内でやっていたときは、選択肢を並べるのが親切だと思っていた。全部見せて、一緒に選ぶ。それが誠実なやり方だと。同僚は、決めきれなければ相談相手がいくらでもいたからだ。
だが他社の現場では、選択肢の一つひとつが、経営者にとっては眠れない夜になる。選ばないと分かっている案を出すのは、丁寧ではなく、雑だ。
その夜、わたしはノートに1行だけ書いた。見せる案は、こちらが責任を持てる数まで削る。
五 転記は、人がやる
三つ目が、実際にやったことだ。
届いた予約通知メールを自動で読み取って、一覧に起こす。 日付、部屋タイプ、人数、氏名、予約サイト名。4社の書式の違いは、こちらで吸収する。「TWN」も「ツインルーム(海側)」も、汐風の呼び名である「海側ツインA」に揃えて表示する。
読み取りは、AIにやらせた。4社ぶんの書式を1行ずつ教え込むやり方だと、それだけで何日もかかる。そのうえ予約サイトは、こちらの都合と関係なく文面を変える。変わるたびに直しに行くような作り方をすると、わたしがいなくなった月に止まる。
やったことは、単純だ。
4社の通知メールを、過去のものから10通ずつ集めて、そのまま読ませた。どこに日付が書いてあるか、どれが人数でどれが部屋タイプかを、こちらから教えない。10通も並べば、どこが毎回変わって、どこが変わらないかは見当がつく。AIは、その見当をつけるのが速い。
半日で、4社ぶんの読み取りができた。
ただし、1つだけ人が作ったものがある。呼び名の対応表だ。
「TWN」も「ツインルーム(海側)」も「海側ツイン」も、汐風では「海側ツインA」と呼ぶ。この対応は、宿の中でしか決まっていない。AIに推測させると、似た名前の別の部屋に寄せてしまうことがある。
坂井さんに、部屋タイプの一覧を出してもらった。18行の表を作るのに、30分かからなかった。この30分が、あとの40秒を決めている。
「これ、部屋を増やしたら、わたしが足すんですか」坂井さんが聞いた。
「はい。1行足すだけです」
「AIって、間違えないんですか」坂井さんが聞いた。
「間違えます」わたしは答えた。「だから、間違えたときに、坂井さんが気づける形にします」
読み取った結果は、元のメールの文面と並べて出るようにした。おかしいと思ったら、その場で元の文を見て、手で直せる。直した回数は記録に残る。多い項目があれば、そこを直せばいい。
ただし——宿泊システムへの入力は、人がやる。
「そこは自動にしないんですか」原さんが聞いた。
「しません。というより、できません」わたしは正直に言った。「宿泊システムに外から書き込む窓口がないので。やるとしたら、人が画面を操作しているふりをする仕掛けを裏で動かすことになりますが、それは壊れます」
「壊れる?」
「システムの画面が少し変わっただけで止まります。ボタンの位置が一つずれただけでもです。そして止まったとき、直せるのはわたしだけです。わたしは、来月にはここにいません」
原さんは、しばらく黙ってからうなずいた。
「……前に入れた業者さんのシステムが、それでした」
「動かなくなったんですか」
「3年前に止まって、連絡したら、担当の方が辞めていて。結局、使うのをやめました」
その代わりに入れたのが、未転記の可視化だった。
一覧の中で、まだ宿泊システムに入っていない予約が赤で出る。入力が済むとチェックを入れて、白に変わる。それだけだ。
作り方は、これまでと同じにした。完成品を持ってこない。半分しか動かないものを、毎日見せる。
7日目の夕方、2社ぶんだけ読み取れる版を坂井さんに見せた。
「これ、部屋タイプが空欄になってます」
「その社だけ、書き方が3種類あるみたいです。明日直します。坂井さん、この赤、どのくらい強い赤がいいですか」
「もっと薄くていいです」坂井さんは言った。「真っ赤だと、忙しいときに見たくなくなるので」
意外な答えだった。わたしは目立たせるほど良いと思っていた。
色は、その場で3回変えた。やり方は、フロントの隅に座ったまま、「もっと薄く」とAIに口で言うだけだ。10秒で戻ってくるので、坂井さんに画面を向け直す。薄くして見せ、もう少し薄くして見せ、一段だけ戻す。坂井さんがカウンターの向こうで顔を上げたのは、三つ目だった。
「それです。それなら、目に入っても嫌じゃないです」
かかったのは5分だった。持ち帰っていたら、この5分は、坂井さんが1日待つことになっていた。
「赤が怖いと、見ないふりをしちゃうんですよ」久保さんが補足した。「うっすらでいいんです。うっすら気持ち悪いのが、いちばん効きます」
10日間で、坂井さんの直しは12回入った。項目の並び順、文字の大きさ、宴会予約を混ぜないこと。そのたびに画面は、坂井さんの手元に近づいていった。
「これ、赤が残ってると気持ち悪いですね」坂井さんが言った。
「そうなってもらえると助かります」
人間は、赤いものを放置できない。 9時間放置されていたのは、坂井さんが怠けていたからではない。放置されていることが、誰にも見えなかったからだ。
六 2週間目の朝礼
導入から2週間、坂井さんは自分でルールを一つ作った。
朝礼のあとと、夕方のチェックイン前に、赤を必ずゼロにする。
「1日2回、決めちゃったほうが楽なんですよ」坂井さんは言った。「手が空いたらやろう、だと、手は空かないので」
これは、わたしが決めたことではなかった。
最初の3日は、正直、うまくいっていなかった。
運用を始めた日の夕方、赤が6件残っていた。次の日は9件。坂井さんは「見てはいるんですけど、手が回らなくて」と言った。画面を作っただけでは、何も変わらないということだ。
その次の朝、久保さんが坂井さんに聞いた。
「坂井さん、いつなら確実に手が空きますか」
「……朝礼のあとと、3時前ですかね。あそこは、必ず1回止まるので」
「じゃあ、そこにしましょう」
決めたのは坂井さんだった。久保さんは、決める場所を聞いただけだ。
久保さんが横で笑っていた。
「上田さん、こういうの、業者が決めると守られないんですよ」
「経験談ですか」
「経験談です。前に本部から来た人が、『毎日17時に必ずやってください』って決めていったんですけど、3日でやめました。17時、いちばん忙しいので」
数字は、こう動いた。
- 1件あたりの転記時間:2分40秒 → 40秒
- 1日の転記作業:約2時間 → 約35分
- 「どこまで入れたか」を確かめる時間:1日30分 → 0
- 未転記が残っている最長時間:9時間 → 40分
1日に1時間半、フロントに時間が戻った。月にすると42時間。これまで汐風に入れてきた道具の中では、いちばん手のこんだ仕組みになった。4社ぶんの通知メールを、毎日AIに読ませているからだ。それでも、戻ってきた時間で見れば、迷う理由はなかった。
速くなった理由を、坂井さんはこう言った。
「打つのが速くなったわけじゃないんです。迷わなくなったんです」
「迷う、というのは」
「前は、どれから手をつけるか毎回考えてたんですよ。4社の受信箱を見比べて、これは急ぐ、これは明日でいい、これはもう入れたかも、って。赤いのを上から順にやればいいと決まってからは、考えなくなりました」
「確かめるほうは」
「しなくなりました」坂井さんは笑った。「チェックが付いているかどうかで分かるので。確かめなくていいのが、いちばん楽です」
減ったのは、打ち込む時間だけではなかった。減ったのは、判断の回数だった。
坂井さんが言った。
「実は、この画面ができてから、夜眠れるようになりました」
「眠れなかったんですか」
「二重に売ってるんじゃないかって、たまに夜中に起きて確認してたんです。去年の8月のあれ以来」
その話は、原さんも知らなかったらしい。専務は、隣で黙っていた。
しばらくして、原さんは坂井さんにこう言った。
「……すみません。必ず確認しろ、としか言ってませんでした」
七 三度目の「残ったもの」
契約の最終日、原さんが聞いた。
「上田さん。今回のこれ、うちの誰が引き取るんですか」
わたしは少し驚いた。それは、これまで一度も出てこなかった質問だった。
「いい質問です」
「前の3回で、思ったんです。作ってもらったものが、うちの中で誰のものになるのか。それを決めないと、また業者さん頼みになる」
「そうです」
わたしは、答えを用意していた。
「今回のこれは、坂井さんのものにしてください。中身を直せるように、2時間だけ研修をさせてください。予約サイトを1社増やしたとき、書式を足すのは坂井さんです」
「わたし、そういうの苦手ですけど」坂井さんが慌てた。
「4社の書式の違いを全部頭に入れてる人が、苦手なわけないです」久保さんが言った。
坂井さんは、口を開けたまま黙った。
研修は、翌週の平日の午前中に2時間だけやった。教えたのは、書式を1行足す方法と、うまく読み取れなかったときにどこを見るか、その二つだけだ。あとは触らないでください、と言った。触っていい範囲を決めることが、引き取ってもらうということだった。
研修の最後に、坂井さんが聞いた。
「これ、わたしが壊したらどうなりますか」
「元に戻せます。書き換える前のものを、自動で残すようにしてあります」
「……それ、先に言ってください」
坂井さんは、そこで初めて笑った。触ってもいいと分かるまで、この人は触らない。 去年の8月から、ずっとそうだったのだと思う。
3か月後、汐風は予約サイトを1社増やした。書式の追加は、坂井さんが自分でやった。わたしには、事後の連絡が1通来ただけだった。
「無事に入りました。2回間違えましたが、3回目で入りました」
その一文を読んだとき、わたしは前の会社にいたころのことを思い出していた。
社内では、作ったものが壊れたら自分が直せばよかった。だから「誰が引き取るか」を考えたことが、一度もなかった。居続けられる人間には、引き継ぎという発想が要らない。
汐風では、来月には自分がいない。いなくなったあとも動き続けるかどうかは、去る前に誰の手に渡したかで決まる。
そして、二重予約になりかけた事故は、導入後8か月でゼロになった。
残ったもの。 予約は速くなったが、日々の売上と稼働は、いまも月末にならないと見えない。予約サイトへの手数料も、去年と同じ率のまま払い続けている。
「次は、数字を見たいですね」帰り際、原さんが言った。「昨日いくら儲かったのか、いまだに分からないので」
この人はもう、何をお願いすればいいのか、自分で分かっている。
冬の海から、風が吹き上げてきていた。
