この話について
会社:ホテル汐風/客室82室/専務が実質の経営者。先代の社長は、宿の数字を全部頭に入れていた人だった
困っていたこと
- 昨日の売上も、稼働率も、客室単価も、その日のうちには分からない
- 数字は宿泊システムの中にあるが、帳票を印刷しないと見えない。誰も印刷しないので、誰も見ていなかった
- 月の数字が翌月7日に出るようになっても、それは「先月の話」。日々の判断は、すべて専務の勘で決まっていた
一 答えられなかった質問
1年ぶりの春だった。
ロビーの窓から見える海が、去年ここに初めて来たときと同じ色をしている。あれから、経理室の月末を軽くし、夕方の電話を減らし、客室清掃の教え方を6本の動画にし、予約の転記に赤を出した。
4回目の依頼で、専務の原康孝さんが言ったのは、こうだった。
「昨日、うちはいくら儲かったんですか」
「……分かりません」
「ですよね。私も分からないんです」
原さんは笑ったが、目は笑っていなかった。
「先月、常連のお客様が団体で入ってくださって、フロントも調理場もみんな『今月は良かった』って言ってたんです。実際、良かったんだと思います。でも、いくら良かったのかを、誰も言えない」
「その月の数字は、翌月7日に出ていますよね」
「出ています。助かってます。でもあれ、先月の話なんですよ」
原さんは、ロビーの椅子に座り直した。
「今週末、まだ空いてる部屋を、いくらで出すか。平日を下げるか。来月の連休に人を厚くするか。……そういうのを、全部、私の勘で決めてるんです」
「勘で決めて、外れたことはありますか」
「分からないんですよ、それも」原さんは苦笑した。「外れたかどうかが分かるのが、1か月後なので。そのころには、次の判断をしています」
原さんは、去年の秋の話をした。
「3連休の前に、まだ20室ほど空いてたんです。焦って、料金を下げました。そうしたら、たしかに埋まったんですよ。満室になりました」
「よかったんじゃないですか」
「そう思ってました。でも、あとで気づいたんです。あの連休、周りの宿も満室だったんですよ。 下げなくても埋まってたかもしれない。下げた分だけ、丸ごと損した可能性がある」
「いくらぐらいですか」
「分からないんです。それも」
そして、こう続けた。
「先代は、頭に入ってたんですよ。何十年ぶんの感覚が。父が『今週は下げるな』と言ったら、だいたい合ってました。私にはそれがない。継いで3年目です。勘を作る前に、社長がいなくなったので」
二 数字は、あった
2日目の午前中で、分かったことがある。
数字は、なかったのではない。誰も見ていなかっただけだ。
汐風の宿泊システムには、日次の帳票を出す機能があった。前日の売上、販売室数、稼働率、客室単価。押せば出る。12年前のシステムだが、そのくらいはできる。
試しに、その場で出してもらった。
宿泊システムのメニューの、下から3番目。「日次帳票」という項目があって、日付を入れて実行を押すと、5秒ほどで画面が切り替わり、細かい数字がびっしり並んだ表が現れた。
昨日の売上が、そこにあった。
40秒で出た。誰も見ていなかっただけで、数字は毎日、そこで生成され続けていた。
「これ、毎日出してますか」
フロント主任の坂井さんは首を振った。
「昔は出してました。夜勤が朝に印刷して、専務の机に置いてたんです」
「いまは」
「……いつからやらなくなったんでしょうね」
坂井さんは、しばらく考えてから言った。
「3年前くらいだと思います。夜勤が2人から1人になったころです」
理由を追うと、はっきりしていた。
1人になった夜勤が、朝の引き継ぎで手一杯になり、印刷が後回しになった。数日抜けた。誰も何も言わなかった。そのうち、印刷されない日のほうが多くなり、やがて完全に止まった。
紙は、机の上で3日たてば見なくなる。見なくなれば、印刷する意味もなくなる。
「専務、これ止まったこと、ご存じでした?」
「……気づいてはいました」原さんは正直に言った。「でも、忙しいのを知ってるので、やれとは言えなくて」
1年前、経理室で金本さんを見ていたときと、同じ構図だった。 誰かが限界まで頑張っているのを知っていると、他の人は何も言えなくなる。そして、止まったものは止まったままになる。
止まった仕組みは、たいてい「面倒だから」で止まっていない。「誰も読まないから」で止まっている。
三 3つに絞る
3日目、わたしは最初にやることを決めた。
数字を増やさない。
宿泊システムの日次帳票には、20以上の項目が並んでいる。売上、室料、料飲、その他収入、販売室数、稼働率、客室単価、1人あたり単価、キャンセル数、ノーショー数、団体人数、館内消費……。
その紙を、そのまま原さんの前に置いてみた。
「これ、全部出したら見ますか」
原さんはしばらく眺めて、それから正直に言った。
「……見ないでしょうね、たぶん」
「はい。なので3つにします」
選んだのは、この3つだ。
- 昨日の客室売上(いくら入ったか)
- 稼働率(何室売れたか)
- 客室単価(いくらで売れたか)
「2番と3番から、1番が出ます。82室に稼働率を掛けると、売れた部屋数が出る。それに単価を掛けたものが、昨日の客室売上です。だから、売上が落ちたときに、数が足りないのか、値段が安すぎたのかが、すぐ分かります」
原さんが、身を乗り出した。
「それ、いつも分からなかったところです。悪い月があっても、原因が言えなくて」
「逆に言うと、この3つで分からないことは、この3つを見ていても分かりません。そのときは、別の数字を足します。いまは足しません」
原さんは、しばらく3つの項目を見ていた。それから、遠慮がちに言った。
「あの……レストランの売上も、入れられますか」
「入れられます。でも、今回は入れません」
「なぜですか」
「レストランの数字を見て、専務は明日、何を変えますか」
原さんは黙った。
「宿泊のほうは、変えられるんです。今週末の料金を上げるか下げるか、明日決められる。でもレストランは、メニューも仕入れも料理長の領分ですよね」
「……そうですね」
「見て、明日動かせる数字だけを出します。 動かせない数字は、いまは邪魔になります。料理長と一緒に見る仕組みを作るなら、それは別の回にしましょう」
原さんは、少し不服そうな顔をしてから、うなずいた。
「前だったら、全部入れてくださいって言ってたと思います」
グラフも1本だけにした。過去30日の売上の折れ線に、去年の同じ日を薄い線で重ねる。それだけだ。
久保さんが横で言った。
「棒グラフと円グラフ、いらないですか」
「いりません。見る数が増えると、見なくなります」
久保さんは、少し笑った。
「フロントにいたとき、本部から来る資料が毎月12枚あったんです。誰も読んでませんでした」
四 「印刷をやめましょう」
作り方は、これまでと同じにした。
新しいシステムは入れない。 1年前に経理室で作った突き合わせの道具に、機能を1つ足すだけだ。宿泊システムから日次帳票をCSVで落として、そこから3つの数字を拾い、前年と並べて出す。
1つだけ、作りに気をつけたことがある。このCSVの見出しは、宿泊システムが更新されるたびに勝手に変わる。「室料計」が「客室売上」になった月に、左から何番目と決め打ちした道具は、黙って別の数字を出しはじめる。だから拾う場所は決め打ちにしなかった。毎朝、落ちてきたCSVの見出しをAIに読ませて、今日はどれが室料でどれが稼働かを見分けさせてから拾う。見分けがつかない朝は、数字を出さずに「見出しが変わりました」とだけ出す。人が呼ばれるのは、その朝だけでいい。
足すのに、半日かからなかった。1年前と同じだ。どの3つを出すか、どう並べるかを決めるところにいちばん時間がかかり、それを形にするところは、AIが引き受ける。
その話を経理室で聞いた金本さんが、笑ったらしい。
「あの人、あたしに19回直させたのよ。専務も遠慮しないで直したほうがいいわ」
実際、原さんは7回直した。並び順、去年の線の色、単価の桁。直すたびに半日で戻ってくるので、遠慮する理由がなかった。
7回のうち3回は、応接室で原さんが喋っているあいだに直った。
「この去年の線、もう少し薄くできますか。今年のほうが目立ってほしいので」
わたしがやるのは、いま言われたことをそのままAIに口で伝えることだ。「去年の線を薄いグレーに。今年の線を太く」。それだけを喋って、出てきたものを画面ごと原さんに返す。原さんは、少し驚いた顔をした。
「……いま、ですか」
「いまです。専務、ほかにありますか」
そこから、注文が2つ続いた。「あとで送ります」と言った瞬間に、その人の頭からは注文が消えてしまう。その場で直るなら、思いついたことが、思いついたまま形になる。
問題は、誰がCSVを落とすかだった。
夜勤が朝に印刷していた作業が、3年前に止まっている。同じことを、同じ人に、もう一度お願いすることになる。
「それ、また止まりますよ」久保さんが言った。
「そうですね」
「夜勤の人、朝いちばんは引き継ぎで手が離せないんです。わたしも入ってたので分かります」
一度止まった仕組みを、もう一度動かす。
これは、新しく始めるより難しい。前にやめた理由が、まだそこに残っているからだ。
汐風の場合、やめた理由は人が減ったことだった。夜勤は3年前に2人から1人になり、いまも1人のままだ。人が減ったままでも回る形にしないと、二度目も同じところで止まる。
4日目、わたしたちは夜勤の担当者に直接会いに行った。深夜勤務の田島さん、47歳。汐風に8年いる。深夜のフロントは1人で、23時から翌朝9時まで、この人が宿の全部を見ている。
「印刷はね、正直めんどくさかったんですよ」田島さんは率直だった。「あれ、A3で3枚出るんです。で、誰も読まないんです。読まれない紙を毎朝作るの、けっこうこたえます」
「3枚を、やめましょう」わたしは言った。「CSVを1回落として、決まった場所に置くだけです。20秒で終わります。紙は出しません」
「それだけ?」
深夜のフロントを、一度だけ見せてもらった。
午前2時。ロビーの照明は落ちていて、カウンターの上のスタンドだけがついている。館内は静かで、たまに製氷機の音がする。田島さんは、その中で1人、翌日の予約表を確認していた。
「怖くないですか」
「慣れました。ただ、何かあったときは1人なので」
団体の到着が遅れる連絡、酔って部屋を間違える客、急病。夜の宿は、昼とは別の仕事でできている。
その人に、朝いちばんの負担を足そうとしている、ということを、わたしは忘れないようにした。
「それだけです。あと、田島さんも見られるようにします」
田島さんが、意外そうな顔をした。
「わたしが見て、意味あります?」
「深夜に、翌日の予約が何室入っているかは、田島さんがいちばん早く知る立場です。それが数字とつながっていたほうが、たぶん面白いです」
田島さんは、少し黙ってから言った。
「……前に印刷してたころ、たまに見てたんですよ。中身」
「どうでした」
「よく分からなかったです。項目が多くて」
3つに絞ってよかった、と思った。
五 朝礼の3分
2週目から運用が始まった。
導入して1週間、変わったのは専務ではなかった。
朝礼だった。
原さんは、朝礼で3つの数字を読み上げるようにした。昨日の売上、稼働率、単価。それだけを、3分。
最初の数日、スタッフの反応は薄かった。数字を聞かされても、自分と関係があると思えなかったのだと思う。
変わったのは、4日目だった。
原さんが「昨日の稼働は72パーセントでした」と言ったとき、清掃チーフの長嶋さんが口を開いた。
「じゃあ、昨日は59室動いてたのね。今日の退室、何室?」
朝礼が、少しざわついた。
長嶋さんは、稼働率を聞いた瞬間に、埋まっていた部屋数を計算していた。そこから連泊を引けば、その日に清掃する部屋の数が出る。20年やっている人には、それが体でつながっている。
「長嶋さん、それ計算したんですか」原さんが聞いた。
「計算っていうか、そうでしょ。82の7割だもの」
その日から、朝礼の3分の意味が変わった。
数字は、経営者だけが見るものではなくなった。フロントは「今日は満室に近いから、チェックインの列を分けよう」と言い、清掃は「今日は多いから、応援を1人回す」と言うようになった。
見ている人が、専務ひとりから11人になった。
調理場からも反応があった。
朝礼の3分を聞いた料理長が、その週のうちに「前の日の稼働が分かるなら、朝の仕込みの量を決めやすい」と言い出した。それまでは、前日の夜にフロントに電話して人数を聞いていたのだという。
「聞くの、気を使うんですよ」料理長は言った。「向こうも忙しいので。だから、だいたいで作ってました」
だいたいで作れば、余る日と足りない日が出る。余った分は捨てる。
その話は、原さんも知らなかった。
面白かったのは、質問が出るようになったことだ。
「単価って、朝食は入ってるんですか」
「稼働率って、修理で止めてる部屋も入ってます?」
原さんは、その場で答えられないものは「調べます」と言って、翌日に答えた。
調べ方は、久保さんが教えた。
宿泊システムから落とすCSVには、項目名が40近く並んでいる。「ADR」「OCC」「室料計」「付帯計」。どれが何を指すのか、宿の中で説明できる人は1人もいなかった。作った会社の言葉のまま並んでいるからだ。
「これ、AIに聞いてみてください」久保さんが言った。「項目名をそのまま貼って、『これは何ですか』って聞くだけでいいです」
原さんは、半信半疑でやってみた。ADRは平均客室単価、OCCは稼働率だと返ってきた。
ただし、付帯計に朝食が入っているかどうかは、AIには分からない。それは汐風のシステムの設定の話で、外からは見えない。そこは、システム会社に電話して聞いた。
「聞く前に、何を聞けばいいかが分かるんですね」原さんは言った。「いままでは、電話するのが億劫だったんです。何て言えばいいか分からなくて」
1週間後には、原さんは誰にも言われずに自分で聞くようになっていた。
答えるために、原さん自身が数字の中身を覚えていった。
説明できるようになるのがいちばん早い勉強だ、というのは、たぶんどの現場でも同じだと思う。
六 4.2パーセント
1か月たったころ、原さんが自分で数字を持ってきた。
「上田さん。これ、見てください」
前年と重ねた折れ線の、平日の部分を指していた。
「去年より、稼働は上がってるんです。でも売上が、ほとんど変わってない」
「単価ですね」
「単価です。平日、安売りしすぎてました」
これは、わたしが指摘したことではない。
原さんが、毎朝3つの数字を1か月見続けて、自分で気づいたことだった。
そこから、原さんは平日の料金を見直した。いきなり全部は動かさない。火曜と水曜の、海側ではない部屋タイプだけ、1,000円上げた。そして、決めごとを1つ置いた。
2週間やって稼働が3ポイント以上落ちたら、元に戻す。
「戻す条件を先に決めておくと、怖くないんですよ」原さんは言った。「これ、去年の私にはできなかったです。上げたあと、どうなったかが月末まで分からなかったので」
最初の1週間、原さんは毎朝、画面を開くのが怖かったという。
「上げた翌日に、稼働が62パーセントって出たんですよ。前の週が68だったので、やっぱりだめかと思って」
「戻しましたか」
「戻しませんでした。2週間って決めたので」
3日後、稼働は70を超えた。曜日と天気で毎日揺れることが、見ているうちに分かってきたのだという。
「1日で判断しちゃだめなんですね。あれ、去年までの私だったら、2日で戻してました」
稼働は、ほとんど落ちなかった。2週間で0.8ポイント。誤差の範囲だった。
原さんは範囲を広げた。木曜を足し、月曜を足し、部屋タイプを1つ増やした。落ちたところで一度だけ戻した。
3か月後、平日の客室単価は4.2パーセント改善していた。全体でならすと、2パーセント弱になる。
金額にすると、月におよそ50万円。年間で600万円だ。この回は、新しい道具を1つも入れていない。
だが原さんが嬉しそうに話したのは、そこではなかった。
「上田さん。私、初めて自分で決めたんです。 数字を見て、仮説を立てて、試して、確かめた。父の勘の真似じゃなくて」
そして、こう言った。
「継ぐって、何を継ぐことなんでしょうねって、去年お聞きしましたよね」
「はい」
「父の頭の中は、継げなかったです。でも、父がやっていた『数字を見て決める』というやり方のほうは、いま作れてる気がします」
七 金曜の夕方の会話
最後に汐風を訪ねた日、わたしはフロントの裏で、こんな会話を聞いた。
坂井さんと、若いスタッフが、画面を見ながら話している。
「今週末、あと何室売れば去年超える?」
「えっと……6室です」
「じゃあ、電話きたら海側から出そう」
1年前、この宿の誰も、こういう会話をしていなかった。
帰りがけ、夜勤に入る田島さんとすれ違った。
「上田さん、あれ、毎朝見てますよ」
「どうですか」
「昨日より上がってると、なんかいいですね」田島さんは少し笑った。「深夜って、誰とも喋らないので。数字が動いてるのを見ると、宿が生きてる感じがします」
今回、画面の作り込みは久保さんが1人でやった。わたしは最初の設計だけ見て、あとは口を出さなかった。
出来上がったものを見て、1つだけ気づいたことがある。
数字の上に、その日の天気が小さく出るようになっていた。わたしは指示していない。
「なんで天気を入れたんですか」
「フロントにいたとき、雨の日は当日予約が増えるんです」久保さんは言った。「みんな知ってるんですけど、誰も数えてないので。並べておけば、そのうち誰か気づくかなと思って」
現場にいた人にしか置けない1列だ、と思った。
残ったもの。 数字は見えるようになったが、稼いだ売上のうち、予約サイトへの手数料として出ていく分は、去年と同じ率のままだ。稼働を埋めているのは、いまも予約サイト経由の客が7割を占めている。
「上田さん、最後に1つだけ、教えてください」
帰り際、原さんが言った。
「うちが自分で決められることは、どこまでですか」
わたしは、その質問を長いこと待っていた気がした。
「それは、次の話にしましょう」
