この話について
会社:ホテル汐風/客室82室/地方の海沿い/フロントは日中2名体制
困っていたこと
- 去年の秋に辞めたフロント社員の補充が、いまだにできていない(直近3か月の応募は2件、入社ゼロ)。その一人分が宿泊部長に乗ったまま
- 夕方5時から7時、チェックインと夕食の準備が重なる2時間、電話が取りきれていなかった
- 鳴って、切れて、消える。取り逃した電話は記録に残らないので、誰も損失の大きさを知らなかった
- 宿泊部長は「電話に機械が出るなんて絶対に嫌」という立場で、自動化には強く反対していた
一 「絶対に嫌です」
3か月ぶりのホテル汐風は、季節が変わっていた。
海沿いの駐車場に、家族連れの車が増えている。前に来たときはまだ肌寒かったのに、いまはロビーの自動ドアが開くたびに、生ぬるい潮の匂いが入ってくる。
「上田さん、お久しぶりです」
原康孝専務が迎えてくれた。前回、経理室の月末を3週間かけて軽くしてきた。その月の数字が翌月7日に出るようになり、止まっていたボイラーの相談も動き出したという。
「金本さん、いかがですか」
「先月、月末に1日休みました。3年ぶりです」原さんは少し笑って、それからすぐに表情を戻した。「……ただ、うちの状況自体は、何も変わっていません」
去年の秋にフロントの社員が一人辞めたまま、補充はできていない。求人は出し続けているが、この3か月の応募は2件だった。面接に来たのは一人で、条件が合わずに辞退された。
「若い子はね、都会に出ちゃうんです。うちみたいな海沿いの宿に、わざわざ来ないんですよ」
その一人分の仕事は、宿の中で消えたわけではない。誰かのところに移っている。
「今度は電話をお願いしたくて。……ただ、先にお伝えしておくことがあります」
応接室で待っていたのは、専務ではなく、その隣に座った女性のほうだった。
原律子さん。38歳。宿泊部長で、専務の妻でもある。フロントと予約を統括していて、この宿の客のことをいちばんよく知っている人だ。前回わたしが来ていたあいだ、月末になると経理室の応援に入っていたのも、この人だった。
名刺を交換した直後、律子さんははっきりと言った。
「先に申し上げます。私は反対です」
「反対、ですか」
「うちは、人が電話に出る宿なんです。お客様の声を、人が聞く。それが汐風の40年です。電話に機械が出るなんて、絶対に嫌です。『ただいま自動音声が承ります』なんて言われたら、常連さんは離れていきます」
律子さんは、まっすぐこちらを見た。
「あなたが何を作ろうと、うちの電話を機械に置き換えることだけは、させません」
わたしはうなずいた。そして答えた。
「出させません」
律子さんの表情が、少し止まった。
「……え?」
「電話に出るのは人がいい。わたしもそう思います。置き換える提案は、しません」
「じゃあ、何をされるんですか」
「一つだけ、伺ってもいいですか」わたしは言った。「いま、この宿で出られていない電話が、1日に何本あるか、ご存じですか」
律子さんは口を開きかけて、そのまま黙った。
「……分かりません」
「3日ください。数えます」
前回、この会社の経理室で、わたしは一度扉を閉められている。30年ぶんの仕事を、会って2日の人間に開いてくれる理由はなかった。今回は分かっていた。強い「ノー」は、障害ではなくデータだ。 律子さんが何を守りたいのかを、これほど正確に教えてくれる言葉はない。
守るべきものが分かっているなら、それを侵さずに解く道を探せばいい。
二 数えられない
2日目の朝、わたしはフロントの隅にパイプ椅子を置かせてもらった。上着を脱ぎ、袖をまくる。前回と同じ格好だ。
そして、最初の壁にぶつかった。
着信の記録が、どこにも残っていなかった。
汐風の電話は、10年以上前に入れたビジネスホンだった。通話はできる。保留も転送もできる。だが、いつ何本かかってきて、そのうち何本を取ったのかは、どこにも残らない。取れなかった電話は、鳴って、切れて、それで消える。
「上田さん、これ困りますね」フロント主任がすまなそうに言った。「うち、そういうの分からないんです」
前の会社なら、こうはならなかった。自社のシステムなら、記録が要ると思った瞬間に自分でログを仕込めた。翌日には数字が出た。
ここでは、それができない。他人の会社の、他人の電話だ。
わたしはメモ帳を開いて、いちばん原始的な方法をとることにした。
正の字を書く。
鳴った回数と、取れた回数。それを、自分の目と耳で数える。3日間。
「……手で、数えるんですか」
声がしたので振り返ると、若いスタッフが立っていた。3か月前に、経理室の色分け画面を勝手に触っていた人だ。フロント兼客室係の久保なつみさん、26歳。
「そうです。ほかに方法がないので」
久保さんは、少し考えてから言った。
「わたし、夕方はフロントにいます。手伝いましょうか」
「助かります。ただ、退屈ですよ」
「たぶん、電話を数えるほうが、電話に出られなくて謝るより気が楽です」
言われて、はっとした。
取り逃した電話は、誰の記録にも残らない。だが現場の人の中には、残っている。 取れなかったという感覚だけが、毎日少しずつ溜まっていく。数えられていないのは記録であって、痛みのほうは、とっくに数えられているのだ。
その日の朝礼のあと、律子さんが通りすがりに言った。
「正の字なんて、うちの母がやってた家計簿みたいですね」
「原始的でお恥ずかしいです」
「いえ」律子さんは少し笑って、それから真顔になった。「……何本取れてないかなんて、考えたこともなかったので」
三 夕方5時の谷
汐風の電話は、朝は穏やかだった。だが、夕方が近づくと様子が変わる。
午後4時を過ぎると、チェックインの客が次々に着き始める。フロントは律子さんを含めて2名。荷物を運び、鍵を渡し、館内を案内し、そのあいだにも電話が鳴る。
5時から7時。 この2時間が、汐風の「谷」だった。
電話が鳴る。誰も取れない。鳴り続ける。切れる。また鳴る。
わたしは隅で、正の字を書いた。久保さんはフロントの内側から、取れた電話に小さく手を挙げて合図してくれた。
2日目から4日目まで、3日間の集計は、こうなった。
- 17時〜19時に鳴った電話:平均して1時間あたり14本
- そのうち取れたのは:6本
- 取れずに切れたもの:8本
2時間で、16本。それが毎日だった。
取れた電話にも、別の問題があった。律子さんはチェックインの手を止められないから、「少々お待ちください」と保留にする。その保留が長い。ストップウォッチで測ると、平均で3分20秒。4分を超えた回もあった。受話器の向こうで、客はただ待たされている。
3日目の夕方6時すぎ、1本の電話を律子さんが顔をこわばらせて取った。英語だった。翌日到着する海外の客からの、到着時間の問い合わせらしい。律子さんは片言で応じ、途中で「Please wait」と言って、英語ができる調理場のスタッフを呼びに走った。その間フロントは一人になり、チェックインの列ができ、別の電話が鳴って、切れた。
もう一つ、数えているうちに見えてきたことがあった。
鳴っている電話は、1種類ではない。
フロントの電話機には外線が3本入っていて、そのどれが鳴っても同じ音がする。宿泊の問い合わせも、取引先からの連絡も、宴会の相談も、間違い電話も、まったく同じ「プルルル」で鳴る。
だから律子さんは、受話器を取るまで、それが何の電話か分からない。チェックインの列が3組できているときに、鳴っている電話が「明日の空室確認」なのか「明後日の団体の人数変更」なのか、判断のしようがない。取るか、取らないかを、賭けで決めている。
「これ、鳴り分けはできないんですか」わたしが聞くと、フロント主任は首を振った。
「たぶんできると思うんですけど、誰も設定の仕方が分からなくて。入れたときの業者さんも、もういないので」
4日目の終わり、わたしのメモ帳は正の字で埋まっていた。
だが、いちばん知りたいことは、まだ分かっていなかった。
取れなかった8本は、何の電話だったのか。
四 消えた電話を、拾い直す
鳴って切れた電話は、番号も残らない。中身を知る方法がない。
行き詰まって、わたしは律子さんに正直に言った。
「取り逃した電話の中身が、分かりません。分からないと、対策が決められません」
律子さんは、集計表をしばらく見ていた。それから、思いついたように言った。
「……留守電、聞きます?」
「留守電?」
「夜、フロントが手薄になる時間だけ、留守番電話にしてるんです。あと、折り返しのお願いが入ってることもあって」
もう一つ、律子さんは思い出した。
「それと、取れなかったお客様、あとで予約サイトから入ってくることがあるんです。同じ苗字と、同じ日程で。……あれ、うちに直接かけて、つながらなかった人だと思うんですよね」
5日目と6日目の2日間、わたしたちは消えた電話を拾い直す作業をした。
留守電は、順に聞いていくだけで半日が消える量だった。わたしは録音をAIに読ませて文字に起こし、「何を聞きたい電話か」だけを1行にまとめさせた。29件が、30分で1枚の表になった。
「……早いですね」律子さんが画面を覗き込んだ。
「ここまでは、早いです」わたしは言った。「ただ、この声の人が常連さんかどうかは、AIには分かりません」
その表を、今度は似たもの同士でまとめさせた。こちらから分類の名前は与えない。「いくつに分かれるかは、あなたが決めてください」とだけ頼む。
AIは、6つに分けてきた。チェックイン時間、駐車場、送迎、Wi-Fi、館内の設備、部屋の設備。
それを律子さんに見せると、指で2か所をなぞった。
「これとこれ、同じです」
「同じ、ですか」
「Wi-Fiとパスワードは、お客様にとっては1つの質問なんです。『ネットつながりますか』って聞かれて、はいと答えると、次に必ずパスワードを聞かれるので」
館内の設備と部屋の設備も、律子さんの中では同じ引き出しに入っていた。「お風呂とアメニティは、だいたい一緒に聞かれます」
6つが、4つになった。AIは字面が似ているものを寄せる。律子さんは、同じ人が続けて聞くものを寄せる。あとで効いたのは、後者だった。
留守電に残っていた29件。それから、取り逃しの直後に予約サイトから入った、同じ苗字・同じ日程の予約。律子さんが「これは常連さん」「これはうちに前に泊まってる」と1件ずつ見分けていく。この判断は、わたしにはできない。
留守電の29件のうち、用件がはっきりしたのは21件だった。残りは無言か、名乗る前に切れている。そこへ、取り逃しの直後に予約サイトから入った予約を重ねると、時刻と苗字が一致するものが8件あった。留守電と重なる分は、二重に数えないよう除いた。
3日ぶんの取り逃し48本のうち、内容が推定できたのは29本。そして、その中身に偏りがあった。
- チェックインの時間の確認:8件
- 駐車場はあるか、何台停まるか:6件
- 最寄り駅からの送迎はあるか:5件
- Wi-Fiや館内設備の確認:4件
23件。推定できた電話の8割が、この四つだった。
残りの6件が、空室と料金の問い合わせ。つまり、予約になったかもしれない電話だった。
「……これ」律子さんが、集計表を指でなぞった。「同じことばっかり聞かれてるんですね」
「はい」
「私、この四つ、1日に何回説明してるんでしょう」
作業をしながら、律子さんは何度か手を止めた。
「この方、覚えてます」
留守電の1件を指していた。年配の男性の声で、来週の宿泊について確認したいことがある、また掛け直します、と言って切れている。
「3年前に、ご夫婦でいらした方です。奥様が階段を上がるのが大変で、1階のお部屋にお通ししたので」
「……声で分かるんですか」
「分かりますよ」律子さんは当たり前のように言った。「うちに2回来てくださった方なら、たいてい」
わたしは、その一言をノートに書いた。
この人の頭の中には、この宿の客の名簿がある。 どこにも書かれていない名簿だ。電話を機械に置き換えたくないという主張は、精神論ではなかった。この人が受話器を取ったときにだけ起きていることが、実際にあるのだ。
だとしたら、なおさら律子さんが電話に出られる時間を増やすほうが正しい。機械にぜんぶ出させて、律子さんが電話から遠ざかるのは、この宿にとって損失になる。
解くべき問題の形が、そこで決まった。
五 月に、90万円
7日目、わたしは律子さんと専務に、紙を1枚出した。
「取り逃した電話のうち、予約につながった可能性があるものを数えます。3日で6件が空室と料金の問い合わせでした。中身が分からなかった19本にも同じ割合で混ざっているとすると、3日でおよそ10本。1日、3本です」
「3本……」
「月にすると90本。空室と料金を聞いてくる電話ですから、つながっていれば半分は予約になっていたと思います。月に45件です」
わたしは、汐風の平均的な予約単価を紙に書いた。1室あたり、およそ2万円。
「45件ぶんの売上で、月におよそ90万円です」
律子さんが息を呑んだ。
「これは『売上が90万円増える』という話ではありません。鳴って切れた電話の向こうに、月90万円ぶんのお客様がいた、という話です」
「……90万」
「そのうち何割かは、あとから予約サイト経由で入り直してくださっています。その分は、手数料を引かれて宿に入ります。残りは、そのまま隣の宿に行っています」
専務が、静かに言った。
「……年間だと、1,000万を超えますね」
「取り逃しがいまのままなら、その規模です」
律子さんの顔から、血の気が引いていた。
「私、こんなに取り逃してたんですか」
「はい。でも、見えていなかっただけです」わたしは言った。「取れた電話は記憶に残ります。取れなかった電話は、鳴って、切れて、消えてしまう。損失は、いつも静かなんです」
律子さんは、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「……機械に、出させたほうがいいってことですか」
わたしは首を横に振った。
「いいえ。むしろ逆です」
六 その四つを、電話でかけさせない
わたしがホワイトボードに書いたのは、たった1行だった。
「その四つを、電話でかけさせない」
「かけさせない?」
「チェックインの時間、駐車場、送迎、Wi-Fi。この四つを聞くために電話をかけている人が、いちばん多いんです。だったら、電話をかける前に答えが目に入っていれば、そもそも鳴りません」
律子さんが、ゆっくりと顔を上げた。
「……電話の数を、減らすってことですか」
「はい。減った分だけ、律子さんが電話に出られるようになります」
やったことは、拍子抜けするほど地味だった。
一つ目。予約完了メールの文面を書き換えた。 それまでは予約内容だけが載っていた事務的なメールに、四つの答えを短く足した。チェックインは15時から。駐車場は無料で40台、予約は不要。送迎は最寄り駅から1日4便、時刻はこの通り。Wi-Fiは全館無料。
二つ目。自社サイトの宿泊ページに、同じ四つを上のほうに書いた。 それまでは「よくある質問」のページの奥に埋まっていて、3回クリックしないと辿り着けなかった。
三つ目。予約サイト各社の施設情報も、同じ内容に揃えた。 ばらばらだった記載を、律子さんと一緒に1日かけて直した。
そして四つ目。ここだけ、道具の手を借りた。着信の履歴が残るサービスを入れた。 何本鳴って、何本取れたか、翌日に一覧で見られるようにするためだ。
「これは、電話に出る機械ではありません」わたしは律子さんに念を押した。「電話を数えるだけの仕組みです。出るのは、これまで通り人です」
律子さんは、画面を見ながら言った。
「……ずるいですね」
「ずるい、ですか」
「私、機械が出るのは嫌だって言いました。でも、電話が減るのは嫌だって、言ってないので」
そして、初めて笑った。
文面を直す作業は、思ったより時間がかかった。
8日目、AIに下書きを書かせて持っていくと、律子さんはほとんど全部に赤を入れた。
「『駐車場:無料・40台』じゃなくて、『お車でお越しの方へ』にしてください。うちのお客様、50代以上が多いので」
「送迎は『1日4便』じゃなくて、時刻を全部書きましょう。何時発かが知りたいんです、みなさん」
「Wi-Fiは、パスワードもここに書いてしまいましょう。フロントで聞かれる回数が、たぶん減ります」
30分で終わると思っていた作業に、2日かかった。
だが、これは律子さんにしか書けない文章だった。40年ぶん、この宿で客に聞かれ続けてきた人の言葉だ。AIが書いた下書きは、情報が正しいだけの文章でしかなかった。それを2日で正しくするところまでは機械にやらせて、最後の1行を宿の言葉にするのは、この人にしかできない。
作ったのはわたしではない、と思った。わたしがやったのは、「その四つが多い」と数えて見せたことだけだ。
七 三本目で、機械が出る
2週間後、着信の記録を見に行った。
夕方2時間の着信は、1時間あたり14本から9本に減っていた。四つの案内が、鳴らなくなったからだ。
だが、取り逃しはゼロにならなかった。1日16本が、1日5本になって、そこで止まっていた。
「減ったんですけど」律子さんは記録を見ながら言った。「この5本が、どうしても取れないんです」
中身は分かっていた。空室と料金の問い合わせだ。四つの案内と違って、これは書いておけない。日によって答えが変わる。
「あの、上田さん」
律子さんが、めずらしく言いにくそうにした。
「相談、なんですけど。……機械に出てもらうのって、どうしても駄目でしょうか」
わたしは、顔を上げた。
「最初に、絶対に嫌だとおっしゃいましたよね」
「言いました」律子さんは正直だった。「でも、あれから毎日、記録を見てるんです。取れなかった5本が、毎日並ぶんですよ。……あれ、お客様なんですよね。1本ずつ」
3日間、隣で正の字を書いていたときと、同じ目をしていた。
「取れなかった電話が見えるようになると、放っておけなくなるんです。前は、見えてなかったので」
「では、線を引きましょう」わたしは言った。「どこまでを機械が受けて、どこから先を律子さんが受けるか。これを決めるのは、わたしではありません」
ホワイトボードに、2本の列を書いた。左に「機械が答えていいもの」、右に「律子さんが出るもの」。
律子さんは、右の列から書き始めた。
記念日の相談。アレルギーの確認。常連さんの部屋の希望。苦情。そして、深夜の「具合が悪い」。
「これは、全部わたしが出ます。夜中でも」
左の列は、はるかに短かった。チェックインの時間。駐車場。送迎。Wi-Fi。それと、空室と料金。
「これだけですか」
「これだけです」律子さんは言った。「あとは、聞いてみないと分からないので」
その「聞いてみないと分からない」を、そのまま設計にした。
機械が先に出るのは、人が3回コールを取れなかったときだけにした。
「鳴った瞬間に機械が出るのは、やっぱり嫌です」律子さんの条件だった。「うちが取れるときは、うちが出たいので」
3コール鳴って、誰も取れなかったとき。そのときだけ、機械が受ける。
機械は、まず用件を聞く。空室と料金なら、その場で答える。宿泊システムの空きを見て、「本日は海側のツインが1室、山側が2室空いております」と言えるようにした。ここで終わる電話が、いちばん多い。
用件が右の列に入るものなら、機械は答えない。「担当の者から折り返しご連絡いたします」と言って、番号と用件だけを残す。同時に、フロントの画面と律子さんの携帯に、それが出る。
機械が答える言葉は、律子さんが書いたものをそのまま使った。2日かけて赤を入れた、あの文面だ。「お車でお越しの方へ」で始まる案内が、そのまま機械の口から出てくる。
「……わたしの言葉で、喋るんですね」
「律子さんの言葉しか、喋れません」
ただ、紙で読める文が、そのまま耳で聞ける文になるとは限らなかった。
一度、律子さんの前で読み上げさせてみた。「駐車場は無料で40台ぶんございます。ご予約は不要です」——律子さんは、すぐに首を振った。
「長いです。電話だと、頭に入りません」
その場で言い方を変えて、もう一度喋らせる。「駐車場は無料です。ご予約は要りません」
「……それです」
わたしがやっているのは、律子さんの首の振り方を、そのままAIに口で伝えることだった。「長いそうです。半分にしてください」「『ございます』はやめてください」。喋った10秒ほど後には、直ったものが機械の口から出てくる。設定画面を開いて項目を探す作業は、一度も発生しなかった。
30分のあいだに、20回ほど往復した。持ち帰って直して翌日また聞かせる、というやり方だったら、この20回は入っていない。その場で聞けて、その場で直せるから、律子さんは遠慮なく首を振れた。
深夜だけは、別の扱いにした。
「この言葉が出たら、機械は答えずに、当直を起こす」という決まりを一つ置く。
「どういう言葉にしますか」わたしが聞くと、律子さんは、しばらく考えてから言った。
「『すみません、夜分に』です」
「それだけですか」
「夜中に、その言い方でかけてくる方は、たいてい困ってます。空室を聞く方は、そんな前置きしませんから」
40年、夜の電話を取ってきた人の答えだった。わたしには、出てこない。
英語も、ここで入れた。
「英語は、どうします」
「……出られません」律子さんは即答した。「片言で、いつも申し訳なくて」
機械が英語で用件を聞いて、日本語にして残す。折り返しの文面は、日本語で書けば英語で届く。
「これ、失礼になりませんか」
「なると思います」わたしは正直に言った。「ただ、いまは、そもそも取れていません。取れないのと、機械が受けるのと、どちらが失礼かという話です」
律子さんは、少し黙ってから言った。
「……取れないほうが、失礼ですね」
この「機械」の中身は、留守電の29件を文字に起こしたのと同じものだ。わたしが画面に向かって使っていたときは、こちらが打ち込んで答えを読む道具だった。それを、電話機の後ろに置いた。打ち込む人がいなくなっただけで、やっていることは変わらない。相手の言ったことを聞き取り、どの用件かを見分け、律子さんの書いた文の中から返す一つを選ぶ。夕方も、深夜も、律子さんが休みの日も、同じように動く。
「あの、留守電を30分で表にしたやつと、同じものですか」
「同じです。わたしが打ち込む代わりに、お客様が喋ってくださっているだけです」
もう一つ、律子さんが目を見開いたものがある。
かかってきた番号を、過去の宿泊記録と照らす。泊まったことのある方なら、電話が鳴っているあいだに、名前と、前回の部屋と、そのとき書き留めたことが、画面に出る。
「川口様。3年前、1階の海側。奥様が階段を上がるのが大変とのこと」
律子さんは、画面を見たまま動かなくなった。
「……これ、わたしが言ったことですよね」
「はい。留守電を聞いていたときに、おっしゃったことです」
この人の頭の中にあった名簿を、外に出しただけだ。判断は変えない。誰にどの部屋をお出しするかは、これまで通り律子さんが決める。だが、律子さんが休みの日に川口様からお電話が来たとき、若い子が「1階のお部屋でよろしいですか」と言えるようになる。
「事実は、全員で持てます」わたしは言った。「決めるのは、これまで通り律子さんです」
人が出た電話のほうにも、一つ足した。
通話を文字に起こして、AIに3行にまとめさせる。誰から、何の用で、次に何をするか。それだけだ。
「録音、聞き返さなくてよくなります」
「あれ、大変なんですよ」律子さんが言った。「言った言わないになったとき、探すのに30分かかるので」
着信の履歴を取るぶんも、この仕組みの中に入っている。
「本当に、拾えるんでしょうか」専務に聞かれた。
「月90万円の話をしています」わたしは答えた。「そのうちどれだけ拾えるかは、やってみないと分かりません。ただ、いま取れていない5本のうち3本が拾えるだけで、この宿の1年は変わります」
八 鳴らなくなった電話
機械が出るようになって、さらに2週間。着信の記録は、こうなった。
鳴る本数は、1時間あたり14本から9本のまま。定型の四つは、もう鳴らない。
律子さんたちが取れる本数は、6本から8本に増えていた。
そこから先を動かしたのは、機械のほうだった。
3コール取れずに機械が受けたのは、1日およそ4本。そのうち3本は、空室と料金を答えて、そのまま終わっている。人に回ってきたのは1本。それは、律子さんがその日のうちに折り返した。
取り逃しは、1日16本から1日1本を切った。
英語の電話は、月に7本あった。これまでは全部、途中で誰かを呼びに走っていた電話だ。そのうち4本が、予約サイトを通さずに、宿に直接入った。
保留の平均時間も、3分20秒から50秒に縮んだ。他の電話に追われなくなったからだ。
もう一つ、予想していなかった変化があった。
フロントの空気が変わった。
以前は、夕方の2時間、電話の音がずっと鳴っていた。取れないと分かっている音が鳴り続ける中で、律子さんも久保さんも、チェックインの客に笑顔で応対していた。
その音が減った。
「上田さん、これ、地味にすごいです」久保さんが言った。「鳴ってるのに取れないのって、けっこう削られるんですよ。取れなくて申し訳ないっていうのが、ずっと背中にあるので」
わたしは、2日目の朝に彼女が言ったことを思い出していた。電話を数えるほうが、電話に出られなくて謝るより気が楽です、と。
取り逃しの本数は、機会損失の数字であると同時に、現場の人が毎日ためこんでいた罪悪感の本数でもあった。前者は経営者に見せる数字で、後者は数字にならない。だが現場にとっては、たぶん後者のほうが重い。
「上田さん、あの」
最終日、律子さんがフロントの奥から出てきた。
「昨日、常連の川口様からお電話をいただいたんです。3年ぶりで。……ちゃんと、1回で取れました」
律子さんは、少し照れたように続けた。
「前だったら、たぶん取れてなかったと思います。あの時間だったので」
それから、こう付け足した。
「取ったの、久保さんなんです。画面に『1階の海側』って出てたので、そのままお通ししたって」
「川口様は、なんと」
「『覚えててくれたんだね』って」律子さんは笑った。「……わたし、そのとき厨房にいたんですよ」
わたしは何も付け足さなかった。この人が守りたかったものは、最初から一貫している。
帰り際、駐車場まで歩いていくと、久保さんが追いかけてきた。3日間、隣で正の字を数えてくれた人だ。
「上田さん。聞いてもいいですか」
「はい」
「わたし、そういう仕事、できますか」
わたしは足を止めた。
「そういう仕事、というのは」
「上田さんがやってる仕事です」久保さんは、まっすぐこちらを見ていた。「わたし、5年ここにいて、夕方の電話がしんどいのは知ってたんです。でも、何本取れてないかなんて、考えたこともなかった。数えたら分かるって、思いもしなかったんです」
そして、こう言った。
「悔しかったんですよ、3か月前も、今回も」
わたしは少し考えて、正直に答えた。
「できると思います」
「本当ですか」
「ぼくが3日かけて数えたことを、久保さんは5年ぶん、体で知っています。それは、あとから勉強しても手に入りません」
久保さんは、しばらく黙っていた。それから、深く頭を下げた。
残ったもの。 常連客の顔と好みは、画面に出るようになった。だが、誰にどの部屋をお出しするかを決められるのは、いまも律子さん一人だ。深夜のフロントも相変わらず一人で、機械は当直を起こすことしかできない。英語の込み入った相談になれば、結局、誰かを呼びに走ることになる。
そして、予約サイトから届くメールは、いまも人が手で転記している。
一つずつだ、と自分に言い聞かせた。全部を一度に直そうとして、わたしはこの現場で一度、扉を閉められている。
車に乗る前、もう一度ロビーを振り返った。夕方の光が海から差し込んでいて、フロントの電話は、鳴っていなかった。
