この話について
会社:ホテル汐風/客室82室/地方の海沿い/正社員24名・パート18名/従業員の平均年齢52歳/リゾートとビジネス利用が半々
困っていたこと
- 月末の締めに、経理担当がたった一人で2日がかり(実働15時間)
- やっているのは、予約サイト4社の明細と、カード決済の入金と、宿泊システムの売上と、通帳を、1件ずつ照らし合わせる作業。1円でも合わなければ、原因が見つかるまで終われない
- その月の成績が数字になるのは翌月20日過ぎ。銀行に見せられるのは、いつも1か月以上前の数字だった
一 「何をお願いすればいいのか、分からないんです」
1日目の朝だった。
海沿いの国道を折れた先に、ホテル汐風はあった。案内された応接室のテーブルには、紙が4枚、きれいに並べられていた。
商工会議所のDXセミナーの資料。信用金庫の担当者に渡されたパンフレット。取引先の旅行代理店から届いた「請求書の電子化のお願い」という通知。
そして、いちばん端に置かれていたのが、求人票だった。
「去年の秋に、フロントの子が一人、辞めまして」
原康孝さん、45歳。ホテル汐風の専務で、総支配人を兼ねている。2年前に社長である父親が倒れてから、経営の判断は全部この人のところに来るようになった。現場はそれぞれの部署の古株が回しているが、決めるのは一人だ。
「お母様の介護で、実家に戻られたんです。仕方のないことですし、本人もぎりぎりまで悩んでくれていました。……ただ、そのぶんの仕事が、そのまま残った人に行ってしまって」
原さんは、求人票を指で軽く押した。
「求人はずっと出しています。ハローワークと、求人サイトと。この半年で応募が4件です。面接まで来てくださったのが二人。入っていただけたのが一人で、その方も3か月で辞められました」
「……4件ですか」
「4件です。来ないんですよ、人が」
窓の外を、宿の送迎バスが出ていく。潮風に少しくすんだ看板が見えた。創業40年。温泉の大浴場と海の見えるレストランが評判で、リゾートとビジネス利用が半々。近ごろは海外からの団体も入るようになった。稼働率は、決して悪くない。
「うち、正社員が24人、パートが18人です。平均年齢が、たしか52だったかな」原さんは自嘲するように笑った。「経理の金本は55です。清掃のチーフは62。フロントもいちばん若い子で26で、その上が40代なんですよ」
「あと何年か、という話は」
「してないんです。誰とも」
原さんは、しばらく黙った。
「怖いんだと思います。あの人たちが抜けたら、この宿がどうなるのか、たぶん誰も想像したくない」
そして、テーブルの上の紙を1枚、こちらに寄せた。信用金庫のパンフレットだった。
「あと、設備の入れ替えの相談も、去年の秋から止まったままでして」
原さんは苦笑した。
「行くたびに『直近の数字を見せてください』と言われるんです。それで、うちが出せるのが、いつも1か月以上前のものなので」
その月にいくら売れて、いくら残ったのかを、項目ごとに並べた集計表がある。試算表という。銀行はそれを見て、貸すかどうかを考える。汐風の試算表ができあがるのは、翌月の20日過ぎだった。4月の成績が形になるのは、5月の下旬になる。
「向こうも仕事ですから、古い紙で判断はできませんよね」
そして、こう続けた。
「勘違いされたくないので、先に言っておきます。人を減らしたいわけじゃないんです。 むしろ逆で、いま残ってくれている人に、これ以上無理をさせたくないんです。去年辞めた子のぶんが、いまも経理に乗ったままなので。うちの宿泊部長——妻なんですが、月末はフロントを抜けて、そっちの応援に入っています」
わたしはうなずいた。
「何かしないといけないのは、分かっているんです。AIとかDXとか、言葉は聞きます。セミナーにも行きました。でも、うちの何にどう使えるのかが、さっぱりで」
原さんは、4枚の紙を見下ろした。
「まわりは、みんな進んでるみたいなんですよ。うちだけ止まってる気がして」
そして、顔を上げた。
「正直に言うと、何をお願いすればいいのかが、分かっていないんです」
わたしは、うなずいた。この言葉を聞くのは初めてではなかった。前の会社でも、社内の他部署から同じことを言われ続けてきた。
「分からなくて当然だと思います」
原さんが顔を上げた。
「もし専務が、何をどう直せばいいかまで分かっていたら、たぶんわたしは要りません。それは、社内でやったほうが早い」
一拍おいて、わたしは続けた。
「3日ください。何が要るかは、こちらで見つけます」
「3日……。その3日で、何をされるんですか」
「座って、見ています」
原さんは、意味が分からないという顔をした。
「……それだけ、ですか」
「それだけです」
契約は3週間で結んであった。最初の3日を、何も作らずに使う。残りの18日で、見つけたものを一つだけ形にする。そういう配分で、わたしはここに来ていた。
わたし、上田健太は、この春から「FDE(フォワードデプロイド・エンジニア)」という肩書になった。客先の現場に入って、そこで見て、その場で作る役割だ。
前職はソフトウェアの会社で、後半の2年は自社の社内改善をやっていた。経理の隣に机を持ち込んで、月の締めを3日から半日にしたこともある。だから、現場に座って手を見ることの価値は、体で分かっているつもりだった。
つもりだった、というのは——他社の現場に入るのは、これが初めてだったからだ。
二 「勝手に見ててちょうだい」
同じ日の午後、わたしは経理室に通された。
フロントの奥、窓のない6畳ほどの部屋。壁一面に、背表紙の色あせたファイルが並んでいる。デスクには2台のモニターと、大きな電卓と、付箋の生えた紙の束。
そこに、金本さんがいた。
55歳。汐風に30年いる。経理を中心に、給与計算も、仕入先への支払いも、フロントの日報の締めも、気づけば全部を抱えていた。名刺には「管理部」とだけ書いてある。
「若い人が来るって聞いてたけど」金本さんはモニターから目を離さずに言った。「悪いけど、こっちは月末なの。かまってあげられないから、そこ座って勝手に見ててちょうだい」
願ってもない返事だった。わたしは上着を脱いで椅子の背にかけ、袖をまくり、パイプ椅子を引き寄せた。ノートPCは開かない。方眼のメモ帳と、ボールペンだけを出す。
そして、金本さんの手元を見た。
30分で、追えなくなった。
金本さんがやっていたのは、月末の照合だった。
予約サイトから届く「今月これだけ売れました」という明細。クレジットカードの入金をまとめている会社——決済代行会社という——から届く「今月これだけ振り込みました」という明細。宿の宿泊システムに記録されている売上。そして、通帳に実際に入ってきた金額。
この四つを、予約1件ずつ突き合わせて、金額が全部そろっているかを確かめていく。経理ではこれを突合と呼ぶ。合わない1件を見つけたら、なぜ合わないのかを追いかける。
金本さんは、予約サイトの管理画面を次々に開いていく。じゃらん、楽天トラベル、Booking.com、Expedia。それぞれからCSVを落とし、画面を見ながら手で書き写し、一つのエクセルにまとめていく。
そのエクセルには、わたしの読めない関数が長々と刺さっていた。VLOOKUPの入れ子。IFの連なり。名前のない中間シートへの参照。金本さんはそれを、指の記憶みたいな速さで操作する。
「サイトごとに、書き方が全然違うのよ」金本さんはため息交じりに言った。「日付の順番も違えば、手数料の載せ方も違う。あっちは税込、こっちは税抜。楽天さんはこう、Bookingさんはこう、って全部あたしの頭のなかにあるの」
しかも、金本さんの仕事は照合だけではなかった。
電話が、ひっきりなしに鳴る。金本さんは手を止めて受話器を取る。「はい、汐風でございます」。空室の問い合わせ、団体の予約変更、忘れ物。フロントが立て込むと、電話はバックヤードまで回ってくる。ある1本は英語だった。金本さんは片言で応じ、途中で「ちょっと、ごめんなさい」とわたしに目で助けを求めた。
部屋の隅では、古い複合機が時々うなり声をあげて紙を吐いた。旅行代理店からのFAX予約だった。金本さんはそれを手に取り、内容をまた宿泊システムに手で打ち込む。「代理店さんは、いまだにFAXなの。この業界、紙が根強いのよ」
月の前半には、給与計算もある。パートを含めて42人分。シフトの実績を紙の勤務表から拾い、時間外を計算する。
「金本さん、これ全部、お一人でやってるんですか」
「昔は二人いたのよ。もう10年前ね。辞めたあと、補充がつかなかったの」
金本さんは、手を止めずに続けた。
「去年もね、フロントの子が辞めたでしょう。あの子、月末はこっちの手伝いに来てくれてたの。伝票の仕分けだけだけど、あれがあるとないとじゃ全然違って」
「その分は、いま誰が」
「あたし」
金本さんは、ちょっと笑った。
「みんなそうよ。誰かが抜けたら、その仕事は消えないから、残った人のところに来るの。当たり前でしょう」
当たり前だ、と言われて、わたしは何も返せなかった。
前の会社では、人が辞めれば補充された。求人を出せば、来た。この宿では、半年出して応募が4件だ。辞めた人の仕事は、消えずに、そのまま誰かの残業になる。 そして、その誰かは55歳だった。
1日目の終わり、わたしのメモ帳に残っていたのは、意味の分からない言葉の断片だけだった。手が速すぎて、何をしているのかすら追えない。
前の会社で、わたしは自分のことを「業務を見るのが得意な人間」だと思っていた。その自信が、半日でぐらついた。
三 「これは、あたしのだから」
2日目、わたしは頼んだ。
「金本さん。そのシートの中身、少し見せていただけませんか」
金本さんの手が、初めて止まった。
「……触らないで。壊れるから」
「壊しません。式を読むだけです」
「読んでどうするの」
答えに詰まった。金本さんはモニターに向き直り、それきり何も言わなかった。しばらくして、独り言のように付け足した。
「これは、あたしのだから」
わたしは、自分の甘さを知った。
社内なら、こうはならなかった。隣の部署に机を持ち込んで「見せてください」と言えば、みんな見せてくれた。同じ会社の人間で、目的も同じで、何よりわたしはずっとそこに居続ける人間だったからだ。
ここでは違う。わたしは3週間で帰る、よその会社の若い男だ。30年ぶんの仕事を、会って2日の人間に開いてくれる理由がない。
その夜、駅前のビジネスホテルで、わたしはノートを開いたまま、しばらく動けなかった。
同じ言葉でも、届き方が違う。社内でのわたしは仲間だった。ここでは、業者だ。
あの人が30年かけて作ったものを、わたしが3日で理解できると思われている限り、あの引き出しは開かない。
わたしは、金本さんの仕事を「読み解くべき対象」として見ていた。それが伝わっていたのだと思う。
四 1,120円
3日目。月末の照合で、金額が合わなかった。
ずれは、1,120円。
82室の宿で、月に何百万円も動いたあとの、1,120円だ。放っておいても誰も困らないように見える。だが、それでは終われない。1円でも合わなければ、どこかで1件、何かを取り違えているということだからだ。 1,120円のずれの裏で、5万円と48,880円が入れ替わっているかもしれない。
だから金本さんは、毎月ここでさかのぼる。半日かけて。
「これ、原因を探させてもらえませんか」わたしは言った。「見つけられなかったら、もう何も聞きません」
金本さんは少し考えて、「いいわよ」と言った。「昼までね」
わたしは、4社ぶんの明細と、決済代行の入金データと、宿泊システムの売上を並べた。予約番号で突き合わせ、金額を1件ずつ検算していく。得意な作業のはずだった。社内では、この手のズレを半日で片づけたことが何度もある。
1時間で、候補を三つに絞った。
一つ目は、直前にキャンセルが入った予約。調べると、正しく処理されていた。二つ目は、団体客の一括請求。これも合っていた。三つ目は、決済代行からの入金日が月をまたいでいるもの。これも違った。
11時。手が止まった。
1,120円という金額を、電卓に何度も打ち込んでみた。宿泊料の端数でもない。手数料の率で割っても、きれいな数字にならない。消費税で割っても合わない。
「税率じゃないのよ、たぶん」
背中から声がした。金本さんが、こちらを見ずに言っていた。
「あたしも最初はそう思ったの。20年前にね」
昼を過ぎても、見つからなかった。
2時になって、わたしは頭を下げた。
「すみません。分かりませんでした」
金本さんは、わたしの画面を覗き込んだ。
3秒だった。
「これ、Bookingさんの手数料。税抜きで載る月と、税込で載る月があるのよ。向こうの担当者が変わると、たまに変わるの」
「……そんなことがあるんですか」
「あるのよ。去年の10月にもあった」
わたしは、心の底から言った。
「すごいですね。ぼく、半日かけて分かりませんでした」
金本さんは、少し驚いた顔をして、それから、笑った。3日目にして初めて見る笑顔だった。
「あんた、正直ね」
そして、こう言った。
「……まあ、こんなの、30年やってりゃ誰でも分かるようになるわよ」
誰でも分かるようになる。 わたしはその言葉を、ノートに書いた。
30年かからずに分かるようにできたら、金本さんは休めるのではないか。
五 七つ
4日目から、わたしは質問を一つだけ、繰り返すことにした。
「合わなかったとき、まず何を疑いますか」
金本さんは、最初は「そうねえ」と言いながら、思い出すように話してくれた。予約サイトの手数料の話。キャンセル料の話。ノーショーの子の話。
わたしはそれを、メモ帳ではなく、模造紙に書き出した。経理室の壁に貼れる大きさの紙だ。
「なんでそんな大きい紙に書くの」
「金本さんに、間違いを直してほしいからです」
紙が壁に貼られると、金本さんは通りすがりに足を止めるようになった。
「あ、それとね。団体さんは請求が一本にまとまるから、そこもズレる」
「これ、月またぎの人が抜けてる。31日に泊まって1日に帰る人ね」
書き足していくうちに、金本さんの言葉が変わってきた。最初は「そうねえ」だったのが、「違う違う、それはこう」になり、やがて「ちょっと貸して」とペンを取るようになった。
5日目の夕方には、金本さんが自分で3項目を書き足していた。
面白いのは、書き出してみると似た顔をした項目が寄っていったことだ。「無料キャンセル期間を過ぎたキャンセル料」と「ノーショーの扱い」は、最初は別々に書かれていた。だが、どちらも「泊まっていないのに売上が立つ」という同じ形をしている。並べて貼り直すと、金本さんが「あら」と声を出した。
「これ、同じ話じゃない」
「はい。処理も同じにできると思います」
6日目、7日目と、項目は増えていった。そして8日目、増えるのが止まった。
書き足されなくなった紙を、わたしは11日目まで待った。それでも増えなかった。
模造紙には、七つの項目が書かれていた。
- サイトごとの手数料(税抜で載る月と税込で載る月がある)
- キャンセル料(無料期間を過ぎた分。サイトの明細には売上として載らない)
- ノーショー(当日来なかった客の扱いがサイトごとに違う)
- 部分返金・人数変更(直前の変更が明細に反映されるタイミングがずれる)
- 団体の一括請求(個別精算と混ざる)
- 現地決済とカード決済の混在(同じ予約でも入金経路が分かれる)
- 月またぎの宿泊(チェックイン月とチェックアウト月で計上が割れる)
わたしは、金本さんに聞いた。
「金本さん。この1年で合わなかったもの、全部この七つのどれかに入りますか」
金本さんは模造紙をじっと見ていた。それから、ゆっくりと言った。
「……入るわね」
「30年ぶんは、どうですか」
長い沈黙があった。
「入ると思う」
金本さんの声が、少し震えていた。
「あたし、毎回、違うことが起きてると思ってた」
「違うことが起きてるんじゃないと思います」わたしは言った。「七つのうちのどれかが、毎回ちょっと違う顔で来てるだけです」
金本さんは、模造紙から目を離さなかった。
「30年で、七つ……」
そのあと、小さく笑った。
「なによ。書き出したら、こんなもんなの」
わたしは首を横に振った。
「書き出せたのは、金本さんが全部覚えていたからです。ぼくが3日座って見つけたのは、この紙が要る、ということだけです」
六 「それだけ、ですか」
七つが決まれば、あとは早かった。
やったことは、こうだ。
壁の模造紙に書かれた七つを、そのままAIに読ませた。「サイトごとの手数料。税抜で載る月と税込で載る月がある」——金本さんが喋ったままの言葉だ。きれいに書き直したりはしない。
そこから、判定の条件が出てくる。税抜と税込のどちらで載っているかは、金額を1.1で割ってみて、割り切れるかどうかで見分けられる。AIはそういう見分け方を書いてくる。人が思いつくのに30分かかることを、数秒で並べてくる。
出てきたものは、そのまま金本さんに見てもらった。
「これ、じゃらんは違うわよ。あそこは締めが月末じゃないから」
そこを直して、また出す。また直す。七つぶんで、丸2日。この2日のうち、AIが動いていた時間は合計しても1時間もない。残りは全部、金本さんに確かめてもらう時間だった。
作ったのは、大それたものではない。各サイトのCSVと決済代行の明細を読み込んで、予約番号と金額と日付で突き合わせ、七つのうちどれに当たるかを自動で見分けて色分けするだけの道具だ。出来上がりだけ見れば、賢いエクセルの延長でしかない。AIを使ったのは、出来上がりではなく、作る速さのほうだった。
でも、それでいい。現場は賢さに感動しない。今日の残業が消えることに感動する。
作り方も、社内でやっていたとおりにした。完成品を持ってこない。半分しか動かないものを、毎日見せる。
12日目の夕方、楽天とじゃらんだけ判定できる版を金本さんに見せた。
「Bookingは?」
「まだです。明日やります。金本さん、この色分け、見やすいですか」
「もうちょっと『要確認』を目立たせて。あたし、そこしか見ないから」
翌朝、色を変えたものを持っていくと、金本さんは画面を見て、それから怪訝な顔をした。
「昨日の今日で、もう直ってるの」
「直しました」
「……あなた、いつ寝てるの」
「寝てます」わたしは笑った。「作る手は、AIに手伝ってもらっているので」
金本さんが、はじめてこちらを正面から見た。
「AI。あの、なんでも答えるってやつ」
「あれです。ただ、うちで使っているのは、答えを出させるほうじゃありません。こちらが決めたとおりの道具を、速く組ませるほうです」
「……何が違うの」
「決めるのは、金本さんとわたしです。七つに分けたのも、『要確認』を目立たせると決めたのも、AIじゃありません」わたしは画面を指した。「AIがやったのは、それを形にする手間だけです。だから、気に入らなければ、明日には作り直せます」
金本さんは、しばらく黙っていた。
「……じゃあ、あたしが文句を言えば、変わるってこと」
「変わります。何回でも」
金本さんは、試すように言った。
「じゃあ、いま一つ言ってもいい? この列、順番が逆なの。日付が先」
わたしはノートPCを金本さんのほうに向けたまま、画面の下の欄に、言われたことをそのまま打ち込んだ。「日付を先頭に。予約番号はその次」。それだけだ。1分たたずに、並び替わった表が出てきた。
「……いま、直ったの」
「直りました。ほかにありますか」
「ここの文字、小さい」
それも、その場で直った。
「あんた、何やってんの、それ」
「AIに、直し方を口で言って作らせています。バイブコーディングなんて呼び方をしますが、名前はどうでもいいです。設計図を先に書くんじゃなくて、金本さんの注文を聞きながら、その場で作り替えているだけです」
「……あたしが喋ってるのと、同じことをしてるのね」
「そうです」
そこから9日間で、金本さんの直しは19回入った。そのうち7回は、こうして経理室でその場で直したものだ。そのたびに道具は、金本さんに近づいていった。その場で直ると分かった人は、遠慮しなくなる。
契約の最終週、わたしは専務に報告に行った。原さんは画面を見て、それから、当然の質問をした。
「で、これ、うちは何を入れ替えることになるんですか」
「何も入れ替えません」
原さんの動きが止まった。
「……それだけ、ですか」
1日目に、この応接室で、わたしが言われたのと同じ言葉だった。あのとき、3日座って見ていますと言ったわたしに、この人は同じ顔をした。
「それだけです。宿泊システムも、予約サイトも、決済代行も、いまのままです。使っているのは、いま毎月出ているCSVと明細だけです」
「あの、需要予測とか、経営のダッシュボードとかは……セミナーでは、そういう話でしたけど」
「今回は、作りません」
原さんが、意外そうな顔をした。
「作れないわけではないんです。ただ、いま作っても、たぶん誰も見ません」わたしは言った。「数字が月末にしか出ないからです。日々の数字が出るようになってから、その話をしましょう」
原さんはしばらく黙って、それから、深く息を吐いた。
「……そういうことを言ってくれた業者さん、初めてです」
そのあと、原さんは少し身を乗り出して聞いた。
「上田さん。これ、うちは何が変わったことになるんですか」
いい質問だった。わたしは紙を出した。
金本さんの月末の照合は、15時間から2時間半になる。差し引き12時間半。年間で150時間。1日8時間で数えれば、19日ぶんの時間が戻ってくる計算だ。
「でも、専務。ここはおまけだと思ってください」
「おまけ、ですか」
「残業代が減るのは分かりやすいですが、それは本題じゃありません。本題は、試算表が2週間早く出ることです」
原さんの表情が変わった。
「初日にお聞きした、設備の相談です。あれが2週間早く動きます。それと、金本さんが休める日ができます。この二つは、時給に換算できません」
原さんは、しばらく紙を見ていた。
「上田さん。この、金本が休める、というところなんですが」
「はい」
「うち、いま人が採れないんです。だから正直に言うと、辞められるのがいちばん怖い。 金本が辞めたら、うちの数字は閉まらなくなります。清掃のチーフが辞めたら、部屋の質が落ちます。求人を出しても、半年で4件しか来ないので」
「はい」
「今回のこれは、その……金本が、あと何年か続けられる形になった、ということでいいんでしょうか」
わたしは、少し考えてから答えた。
「そう思います。ただ、もう一つあります」
「もう一つ?」
「壁に貼ってある七つの紙です。あれがあると、金本さんが辞めたときに、次の人が30年かけずに済みます」
原さんが、ゆっくりとこちらを見た。
「……それは」
「金本さんに続けていただくための道具でもあり、いつか続けられなくなったときのための道具でもあります。両方です」
原さんは、壁に貼られた七つの紙へ視線を移した。
「うちの父はね」ぽつりと言った。「この宿の数字を、全部頭に入れてたんです。今月がいいか悪いか、どの月に何が要るか、いくら残るか。誰も帳簿を見て経営してなかった。……父に聞けばよかったので」
そして、その人が倒れた。
「継ぐって、何を継ぐことなんでしょうね。看板は継ぎました。従業員も継ぎました。でも、父が頭に入れてたものは、誰からも引き継いでいないんです」
わたしはその言葉を、ノートに書いた。あとで何度も読み返すことになる1行だった。
金本さんの30年も、たぶん同じ場所にある。
七 7日に上がった数字
3週間の契約には、もう1日だけ先の予定が入れてあった。翌月の締めに、一度だけ立ち会う日だ。作った道具が本当に効いたかどうかは、次の月末が来るまで誰にも分からない。
その日、金本さんが照合に使った時間は、2時間30分だった。15時間が、2時間半になった。
「一致」と判定されたものを、金本さんはもう見ない。「要確認」に落ちた17件だけを、目で見て、判断する。判断は相変わらず金本さんの仕事だ。だが、探す仕事がなくなった。
試算表は、翌月7日に上がった。20日過ぎだったものが、7日になった。
汐風の顧問税理士から電話があったのは、その週の終わりだった。60代の先生で、先代の社長のころからの付き合いだという。
「上田さん、これ、うちも助かります」と先生は言った。「実はね、何年も前から『資料を早く』とはお願いしてたんです。でも言えなくなっていた。金本さんが一人で背負ってるのに、これ以上早くしろというのは、あの人にもっと働けと言うのと同じでしょう」
「はい」
「月の締めが早くなるなら、こちらの確認も早く回せます。今期がいくらで終わりそうかの見通しも、いまなら出せますよ」
その数字を持って、原さんは信用金庫に行った。
以前は「直近の数字を見せてほしい」と言われて、いつも1か月以上古い試算表しか出せなかった。担当者は嫌な顔こそしないが、話は前に進まなかった。
半年止まっていた設備の相談が、動き出した。
契約が終わってからの1か月も、金本さんには手作業を続けてもらった。道具が出した結果と、金本さんが手で出した結果を、月末に並べて見る。
ずれたのは1回だけだった。原因はAIの判定ではなく、こちらが月の指定を間違えたことだった。
「もう、いいわよ」2か月目に金本さんが言った。「合ってるもの、これ」
手作業との並行は、そこで終わりにした。その日、わたしは経理室に挨拶に行った。金本さんはいつもの椅子に座っていたが、机の上の付箋の束は、明らかに減っていた。壁の模造紙は、そのまま貼ってあった。
「ねえ、上田さん」金本さんが言った。「あたしね、来月、月末に1日休んでみようと思うの」
3年間、月末に有給を取っていない人だった。
「休めますか」
「たぶんね。あの色分けの画面、フロントの若い子に触らせてみたのよ。そしたらあの子、1時間で使えるようになった」
金本さんは模造紙を指さして、笑った。
「これがあるからね。あたしの頭の中、そこに出しちゃったから」
帰り際、原さんが玄関まで送ってくれた。
「上田さん。最初に『3日座って見ています』って言われたとき、正直、この人大丈夫かなと思いました」
「よく言われます」
「でも、うちに必要だったのは、たぶんこれだったんですね」
そして、原さんは言った。
「次は、電話をなんとかしてもらえませんか。夕方、鳴りっぱなしで、取れてないんですよ」
わたしはうなずいて、その一言をノートに書いた。
残ったもの。 月末の照合は速くなったが、日々の数字はまだ月末にならないと見えない。予約サイトからのメールは、いまも人が手で転記している。旅行代理店からのFAXも、まだ紙のままだ。そしてフロントの電話は、鳴り続けている。
一つずつだ、と自分に言い聞かせた。3週間で分かったのは、ここは自分の会社ではないということだった。全部やろうとして、金本さんに一度扉を閉められている。
駐車場へ歩いていくと、廊下の隅で、若いスタッフが例の色分け画面を開いているのが見えた。フロントの人だ。目が合って、彼女は少し慌てて画面を閉じた。
「すみません、勝手に触って」
「いえ。どうでした」
「……なんか、悔しかったです」彼女は言った。「金本さんが2日がかりで探してたものが、画面1枚に出てくるのが。わたし、5年ここにいるのに、あの部屋で何が起きてるのか知らなかったんです」
そして、少し笑った。
「あと、ちょっと楽しかったです。あの色が変わるところ」
わたしはそのときは、それだけの会話だと思っていた。彼女が3か月後、まったく別のことを聞いてくるとは、思っていなかった。
