この話について
会社:山桜建設/社員28名/山あいの地方都市/公共工事6割・民間4割/社員の平均年齢51歳
困っていたこと
- 現場で「ついでにこれも」と頼まれた工事が、請求書に載らないまま竣工していく
- 頼まれたのは現場、請求書を作るのは事務所。その間に伝票が1枚もない
- やったかどうかを後から確かめる方法がない。だから、取り漏らしても誰も気づかない
- 工事写真は撮っている。だが担当者のスマートフォンの中にあり、竣工のたびに、夜なべでアルバムを作っている
一 「ついでに、って言われると、断れないんです」
6月の終わり、山桜建設に戻ってきた。
前に来たときは川沿いの桜が散ったばかりだったが、いまは葉が濃く茂って、雨に濡れて黒く光っていた。
「上田さん、これ見てもらえますか」
事務所に入るなり、谷さんに呼び止められた。総務経理の谷さん、55歳。請求書の発行と支払いをやっている人だ。前に来たときは、引き合いの記録を探して首をかしげていた。
机の上に、A4の紙が2枚並んでいた。1枚は工事の契約書で、もう1枚は請求書の控えだった。
「これ、先月に終わった工場の改修です」
「はい」
「契約が1,180万円で、請求も1,180万円なんです」
「合っていますね」
「合ってるんです。でも」
谷さんは、3枚目の紙を出した。現場から回ってきた日報のコピーだった。
「これ、3月の日報なんですけど。排水桝の入れ替えって書いてあるんですよ」
「契約に入っていない工事ですか」
「入ってないんです。契約書の内訳、全部見ましたけど、どこにもない」
谷さんは、ため息をついた。
「たぶん、現場でやったんです。誰かが頼まれて。でも請求してないんです」
そのとき、事務所の扉が開いた。
阿部くんが、雨具のまま入ってきた。26歳、現場監督3年目。この会社でいちばん若い社員だ。前に会ったとき、わたしに図面の読み方を教えてくれた。
「阿部くん、ちょっと」
谷さんが日報を見せると、阿部くんの顔が固まった。
「……ああ。それ、やりました」
「やっぱり」
「工場長さんに言われて。『どうせ掘るなら、あそこの桝も替えといて』って」
「いくらかかったか、分かる?」
阿部くんは、少し考えた。
「桝が2つで、材料が5万くらい。人が2人で半日……あと、ユンボがその日入ってたので」
「12万か13万ってところだな」
背中から声がした。篠原さんだった。工務部長、60歳。この会社で見積もりを作れるただ一人の人で、前回わたしが3週間隣に座った人だ。
「篠原さん、これ、請求してないんですけど」
「してないだろうね」
篠原さんは、あっさり言った。
「阿部、その日、なんて答えたの」
「……『分かりました』って」
「だろうね」
篠原さんは、笑いも怒りもしなかった。
「わたしも若いころは、そう答えてたよ」
そこへ、古賀さんが2階から降りてきた。48歳、2代目社長。作業ズボンにポロシャツ、前と同じ格好だった。
「どうしました」
谷さんが説明すると、古賀さんはしばらく紙を見ていた。
「13万ですか」
「たぶん」
「1件なら、まあ、と言ってしまうところなんですけど」
古賀さんは、顔を上げた。
「上田さん。これ、うち、年間でいくらやってると思いますか」
「分かりません」
「わたしも分からないんです。分からないのが、いちばん怖い」
そして、こう言った。
「阿部を責める話にはしたくないんです。あの子は現場で頼まれて、断れなかっただけなので。断ってたら、それはそれで困る」
「はい」
「ついでに、って言われると、断れないんですよ。うちみたいな会社は」
わたしは、その言葉をノートに書いた。
二 雨の現場事務所
翌日から、わたしは現場に出ることにした。
阿部くんが担当している現場は3つあった。市道の側溝工事、住宅の外壁改修、それから小学校の給食室の改修。梅雨に入っていて、雨で動けない日が半分あった。
現場事務所は、小学校の駐車場の隅に置かれたプレハブだった。中に折りたたみの机と、パイプ椅子が2脚。壁に工程表と、安全の書類が貼ってある。
阿部くんは、朝7時にここへ来て、職人の顔を見て、写真を撮り、次の現場へ回る。夕方また戻ってきて、日報を書く。
わたしは、その日報を見せてもらった。
A4に1日分。天気、作業員の人数、作業内容、明日の予定。手書きだ。
「これ、毎日書いてるんですか」
「書いてます。書かないと、後で分からなくなるので」
「これ、どこへ行くんですか」
「事務所のファイルに綴じます」
「谷さんは、見ますか」
阿部くんは、少し考えた。
「……見てないと思います。頼まれたときは、探して出しますけど」
「写真は、どうしていますか」
「撮ってます。工事写真は、黒板を持って撮るやつがあるので」
「どこに入っていますか」
「僕のスマホです」
阿部くんは、画面を開いて見せてくれた。カメラロールが、3つの現場の写真で埋まっている。日付の順に並んでいるだけだ。どれがどの現場かは、本人が見れば分かる。だが、探せない。
「これ、竣工のときはどうするんですか」
「アルバムを作ります。工種ごとに並べ替えて、印刷して」
「どのくらいかかりますか」
「1件で、2日か3日ですね。夜にやります」
去年、こんなことがあったのだという。工場の改修が終わって半年してから、施主に「あの日の配筋の写真はありますか」と聞かれた。阿部くんは、自分のスマートフォンをさかのぼって、3日かけて探した。
「見つかったんですか」
「見つかりました。でも、3日かかったって、言えないじゃないですか」
3日目の午後、その場面が起きた。
給食室の現場に、学校の事務の方が来た。改修中の壁を見ながら、阿部くんに何か話している。わたしは離れたところで聞いていた。
「阿部さん、この棚なんですけど。どうせ壁を触るなら、位置を50センチずらせませんかね」
「ずらす、ですか」
「そのほうが動線がよくて。先生方からも言われてるんです」
阿部くんは、壁を見て、少し考えた。
「……できると思います」
「助かります。じゃあ、お願いします」
事務の方が行ってしまうと、阿部くんはわたしのほうを見て、ばつが悪そうに笑った。
「いま、やっちゃいました」
「いまのは、契約に入っていますか」
「入ってないです」
「いくらぐらいですか」
「棚を外して、下地を組み直して、また付けて。1人で1日……材料入れて、5万くらいですかね」
「請求は」
阿部くんは、黙った。
雨がプレハブの屋根を叩いていた。
「言えないんですよ」阿部くんは言った。「50センチずらすだけで5万円いただきます、って、あの流れで言えます?」
「言いにくいですね」
「言いにくいです。しかも、うちは来年もここの仕事を取りたいので」
阿部くんは、机の上の日報に目を落とした。
「だから、日報には書きます。書くんですけど……それが請求になるかどうかは、僕の仕事じゃないので」
それが請求になるかどうかは、僕の仕事じゃない。
わたしはその1行を書いた。ここに、断層がある。
三 やった証拠が、どこにもない
事務所に戻って、谷さんに聞いた。
「谷さん。追加でやった工事は、どうやって請求書に載るんですか」
「篠原さんが教えてくれます」
「篠原さんは、どうやって知るんですか」
「……阿部くんから聞くか、現場を見て気づくか、ですかね」
「記録は」
「ないです」
谷さんは、はっきり言った。
「契約書と、請求書と、入金の記録はあります。でも、その間にあったことは、どこにも残ってないんです」
「日報は」
「日報はありますけど、あれは工事の記録であって、お金の記録じゃないので」
谷さんは、キャビネットを開けた。日報を綴じたファイルが、現場ごとに並んでいた。分厚い。
「これ、全部読めば分かるんですか」
「分かるかもしれません。でも、1年分で何千枚あるので」
わたしは、数えてみた。現場が年に20件前後、1件あたり3か月から半年。日報は1日1枚。ざっと2,000枚を超えていた。
「谷さん。これ、読ませてもらってもいいですか」
「読むんですか?」
「読みます。というか、読ませます」
谷さんは、意味が分からないという顔をした。
その日から、わたしはスキャナを借りて、去年1年ぶんの日報を読み込んだ。3日かかった。手書きなので、そのままでは文字にならない。AIに、書いてある内容を1日1行にまとめてもらった。
- 日付
- 現場名
- 作業員の人数
- その日にやったこと
- 使った材料
1,900枚あまりが、1枚の表になった。丸1日かかった。そのうち機械が動いていたのは、2時間ほどだった。
次に、その表と、契約書の内訳を突き合わせた。
「契約の内訳に無い作業をした日」を、AIに拾わせた。
出てきたのは、87件だった。
わたしはその87件を持って、篠原さんの机に行った。
篠原さんは、リストを上から順に見ていった。そして、3行目で止まった。
「これは違うよ」
「違いますか」
「これ、手直しだ」
「手直し」
「うちがやった仕事で、うまくいかなかったところを、やり直してるの。追加じゃない。こっちの持ち出し」
篠原さんは、赤いペンで線を引いた。
「これも。これも。……ああ、これは追加だな。これは違う。これは、たぶん追加」
30分で、87件が仕分けられた。
- 本当に追加でやった工事:41件
- 自社の手直し(請求できない):29件
- 契約に含まれている作業を、日報の書き方で見落としただけ:17件
「AIは、契約書に書いてない言葉を全部拾ってきます」わたしは言った。「だから、うちのミスまで追加工事に見えます」
「そうだろうね」篠原さんは言った。「機械は、うちが悪いかどうかは知らんもの」
そこで、わたしは質問を一つだけ、繰り返すことにした。
「これが追加かどうか、篠原さんは何を見て決めていますか」
篠原さんは、コーヒーを飲みながら、思い出すように話した。それを録音して、文字にして、AIに整理させると、条件が出てきた。篠原さんはそれを2つ消して、3つ足した。
残ったのは、7つだった。
- 材料を追加で買っているか(買っていれば、まず追加)
- 契約書の内訳にある工種か(あれば、含まれている可能性が高い)
- 施主から言われた日か、自分たちで気づいた日か(自分たちで気づいたものは、たいてい手直し)
- 同じ場所を2回触っていないか(2回目は手直し)
- 重機や車両が余分に動いているか
- 人だけで済んでいるか(人だけのものは、その場の助け合いとして請求しないことが多い)
- その現場の担当者が、口頭で了解しているか
「7番が、いちばん難しいんだよ」篠原さんは言った。「これがないと、請求できない」
四 1年で、1,240万円
翌週、わたしは古賀さんに紙を1枚持っていった。
書いたのは、これだけだった。
- 去年1年で、契約に無い工事をやった日が41件ありました
- そのうち請求できていたのは、9件です
- 請求できていなかった32件を、篠原さんの単価で見積もると、1,240万円でした
- 御社の去年の粗利は、およそ1億3千万円です。その1割弱にあたります
古賀さんは、紙を長いあいだ見ていた。
「1,240万」
「はい」
「上田さん。これ、全部取れたはずのお金ですか」
「いえ」
わたしは、正直に答えた。
「32件のうち、いくつかは、たぶん請求できません。金額が小さすぎるもの、施主の担当者が了解していないもの、頼まれたのか自分たちで判断したのか分からないものがあります」
「じゃあ、いくらですか」
「篠原さんに見てもらったところ、確実に請求できたのは19件、780万円でした」
古賀さんは、椅子の背にもたれた。しばらく天井を見ていた。
「780万」
「はい」
「うち、去年の経常利益が2,200万なんです」
古賀さんは、静かに言った。
「その3分の1が、消えてたんですね」
そのとき、事務所の空気が変わった。
谷さんが、こちらを見ていた。阿部くんは、パソコンの前で固まっていた。
わたしは、そこで自分の失敗に気づいた。
この紙は、阿部くんを責める紙になる。
五 「あの子のせいには、したくないんです」
その日の夜、わたしは自分の出した紙を、もう一度読み返した。
数字は正しい。780万円は、実際に取り漏らした金額だ。
だが、あの紙には別の読み方があった。32件のうち半分以上は、阿部くんが担当している現場のものだ。 つまりあれは、阿部くんが780万円のうちいくらを落としたか、という紙にもなる。
確かめるべきことが、一つあった。
その32件を、阿部くんは請求しようと思えばできたのか。
阿部くんは、現場で「ずらせますか」と言われて「できます」と答えた。あの流れで金額を言うのは、26歳には無理だ。いや、26歳でなくても無理だ。篠原さんも「わたしも若いころはそう答えてた」と言っていた。
できなかった。だとすれば、これは阿部くんの問題ではない。
翌朝、わたしは古賀さんに、もう一度会わせてもらった。
「昨日の紙のことなんですが」わたしは言った。「あれは、出し方を間違えました」
「といいますと」
「あの紙は、誰かが780万円を落とした、という読み方ができてしまいます。でも、この会社に、その32件を請求できた人はいません」
古賀さんは、うなずいた。
「わたしも、それを言おうと思っていました」
「はい」
「阿部のせいには、したくないんです。あの子は現場で頼まれて、断れなかっただけなので」
古賀さんは、窓の外を見た。雨が降っていた。
「それに、うちは断らないから仕事をもらえてる面もあるんです。ついでにやってくれる会社だから、次も声がかかる。それを全部やめたら、たぶんうちは選ばれなくなる」
「はい」
「だから、断らせたくはない。でも、ただでやるのも違う。……その真ん中って、あるんでしょうか」
わたしは、少し考えてから答えた。
「あると思います」
「どこですか」
「金額を、現場に言わせないことです」
古賀さんが、顔を上げた。
その日の午後、わたしは阿部くんを現場事務所に訪ねた。雨で作業が止まっていて、阿部くんは一人で日報を書いていた。
「昨日は、すみませんでした」わたしは言った。
「いえ」
「阿部さんに聞きたいんですが。現場で頼まれたとき、金額を言うのは無理ですよね」
「無理です」阿部くんは即答した。「あの場でお金の話をすると、なんか、意地悪みたいになるので」
「では、こういうのはどうですか」
わたしはノートを開いた。
「金額は言いません。ただ、やったことだけを、その日のうちに残す。写真を1枚と、何をしたかを1行。それを事務所に送る」
「それだけですか」
「それだけです。金額を入れるのは篠原さんの仕事、請求するかどうかを決めるのは社長の仕事です。阿部さんの仕事は、やったという事実を、その日のうちに残すことだけです」
阿部くんは、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「それ、僕が助かります」
「そうですか」
「いままで、日報に書いても誰も読まないので、書いてる意味がよく分からなかったんです。でも、あれが後で誰かの役に立つなら、書きます」
六 その日のうちに、1枚
作ったのは、ごく小さいものだ。
阿部くんのスマートフォンで、3つだけ入力する。
- どの現場か(一覧から選ぶ)
- 何をしたか(1行。話しかけても文字になる)
- 写真を1枚
送ると、事務所の谷さんの画面に、その日のうちに並ぶ。それだけだ。
金額の欄は、作らなかった。
写真については、もう一つだけやった。
送られてきた写真をAIに見せて、写っているものを1行にする。「配筋」「型枠の建て込み」「掘削」「外壁の下地」——それだけの短い言葉だ。どの現場のいつの写真かは、送った時点で分かっている。
これで、あとから言葉で探せるようになる。「給食室の、配筋」と打てば、その写真が出てくる。
AIは、ここでも間違えた。
メッシュ筋を「配筋」と書き、既存の壁を壊しているところを「掘削」と書いた。直したのは阿部くんだ。出てきた1行を、打ち替えるだけでいい。
「これ、僕が直したら、次から合うようになるんですか」
「なりません」わたしは正直に答えた。「同じ間違いをします」
「じゃあ、ずっと直すんですね」
「ずっと直します。ただ、1件10秒です」
阿部くんは、少し笑った。
「10秒なら、いいです。3日探すよりは」
作り方は、いつもどおりにした。完成品を持ってこない。半分しか動かないものを、毎日見せる。
初日の版は、現場を選ぶところと写真しかできていなかった。
「文字は?」
「明日やります。阿部さん、この現場の一覧、この順番でいいですか」
「担当してる現場が上に来てほしいです。あと、終わった現場は消えてほしい」
3日目、阿部くんが言った。
「これ、雨の日どうしますか」
「雨の日?」
「雨で中止の日も、朝は現場に行ってるんですよ。行って、帰ってきてる。それも記録に残したほうがいいと思うんです」
わたしは、なぜかを聞いた。
「あとで工期がずれたときに、『何日雨で止まったか』を聞かれるので。いま、それも僕の記憶なんです」
その日のうちに、「雨天中止」のボタンを足した。
12日間で、阿部くんの直しは23回入った。
篠原さんのほうにも、直しを入れてもらった。篠原さんが見るのは、金額を入れる画面だ。
「これ、写真が小さい」
「拡大できるようにします」
「あと、材料の欄がほしい。何を何個使ったか。それがないと単価を入れられない」
「入力を増やすと、現場が書かなくなりませんか」
「じゃあ、後から足せるようにして。現場は写真だけでいい。材料は、わたしが写真を見て書く」
これが、この道具のいちばん大事なところになった。
現場は、事実だけを送る。判断はしない。金額も書かない。
そして、もう一つ。
谷さんが、思いついたことを言った。
「上田さん。これ、お客様にも送れませんか」
「お客様に、ですか」
「その日にやったことを、その日のうちに。金額は書かずに、『本日、これこれを追加で施工しました』って」
「なぜですか」
「後から請求書に載せると、揉めるんです」谷さんは言った。「『そんなの頼んでない』って言われることがあって。でも、その日に知らせておけば、少なくとも『やった』ことは共有できてるので」
篠原さんが、横から言った。
「それはいい。あとでこっちが引っ込めることになっても、やったことは知ってもらえる」
わたしは、その場でメールの文面をAIに書かせた。
出てきたのは、こうだった。
> 拝啓 貴社ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。さて、本日、下記の追加施工を実施いたしましたのでご報告申し上げます。
谷さんは、それを読んで、首を横に振った。
「これ、うちが出す文章じゃないです」
「硬すぎますか」
「硬いというか……よそよそしいです。うちは、工場長さんとも学校の事務の方とも、毎日顔を合わせてるので」
谷さんは、キーボードを引き寄せた。そして、自分で打った。
> いつもお世話になっております。本日、○○の作業をあわせて行いましたので、写真をお送りします。ご確認いただければ幸いです。
「これでいいです」
「短いですね」
「短いほうが読んでもらえます。あの人たち、忙しいので」
七 「言ってくれたほうが、助かります」
3か月後、9月の初めに、もう一度山桜建設に寄った。
夏が終わりかけていて、川の水が減っていた。
谷さんが、画面を見せてくれた。7月と8月に、現場から送られてきた記録が並んでいた。
- 送られてきた記録:64件
- そのうち、追加工事として金額を入れたもの:23件
- 実際に請求したもの:19件
- 請求した金額:310万円
「3か月弱で、310万です」谷さんは言った。「去年1年で780万取り漏らしてたので、だいたい追いついた計算になります」
「請求しなかった4件は」
「社長が『これはいい』と言いました。金額が小さいのと、お付き合いの長いお客様なので」
「それでいいと思います」
「わたしもそう思います」谷さんは笑った。「請求しないと決めるのと、請求できないのは、全然違うので」
もう一つ、この3か月で変わったことがある。
7月に終わった市道の側溝工事で、阿部くんは竣工のアルバムを、夜に作らなかった。
写真が最初から現場ごとに分かれていて、1枚ずつに1行の説明がついている。工種の順に並べ替えて、印刷するだけだった。
「2日か3日かかってたのが、2時間でした」
8月には、去年終わった工場の改修について、施主から電話があった。あの配管、どこを通していましたか、という問い合わせだった。
「去年のぶんは紙のアルバムなので、探すのに半日かかりました」谷さんは言った。「でも来年からは、たぶん、電話しながら出せます」
阿部くんにも会った。夏のあいだに日焼けして、少し逞しくなっていた。
「あれ、使ってます?」
「使ってます。1件30秒なので」
阿部くんは、スマートフォンを出して見せてくれた。この3か月で、彼が送った記録は41件あった。
「変わったことはありますか」
「あります」
阿部くんは、少し考えてから言った。
「頼まれたときに、断らなくてよくなりました」
「断らなくて?」
「前は、頼まれると、ちょっと嫌だったんです。やったら会社が損するのに、断ったら関係が悪くなるので。板挟みで」
阿部くんは、スマートフォンをポケットに戻した。
「いまは、『分かりました』って言って、その場で写真を撮ります。あとは会社が決めるので。僕は、いい顔だけしてればいいんです」
そのあと、面白い話を聞いた。
給食室の現場の、学校の事務の方から、こんなことを言われたのだという。
「あの写真のメール、助かってます」
「そうですか」
「うち、公費なので。あとから『これもやりました』って言われると、稟議が間に合わないんです」
そして、こう続けたそうだ。
「言ってくれたほうが、助かります。その日に言ってもらえれば、こっちも上に相談できるので」
阿部くんは、それを聞いて驚いたと言った。
「僕、言ったら怒られると思ってたんですよ。ずっと」
古賀さんとも話した。
「上田さん。あの写真のやつ、3か月で310万です」
古賀さんは、笑った。
「1年やったら、たぶん1,000万を超えますよ」
「そうなるといいですね」
「それより」古賀さんは言った。「阿部の顔が、明るくなりました」
「はい」
「あの子、去年の後半、ちょっと元気がなかったんですよ。理由は聞かなかったんですけど。……いま思えば、あれだったんでしょうね。板挟みだったんだ」
古賀さんは、事務所の窓から現場のほうを見た。
「うちみたいな会社は、断らないことで仕事をもらってるんです。それは変えられない。でも、ただでやってるのか、あとで請求してるのかは、区別できるようになった」
帰り際、篠原さんが玄関まで送ってくれた。
「上田さん。あの写真、わたしも助かってるよ」
「見積もりに使えますか」
「使える。あれ、うちの実績が写真つきで溜まっていくからね」
篠原さんは、少し笑った。
「排水桝を2つ替えるのに、何人で何日かかったか。写真と一緒に残ってる。これ、次の見積もりのときに効くよ」
わたしは、それを聞いて、少し先の話をした。
「篠原さん。それ、いま5つの現場で同時に起きてますよね」
「起きてる」
「誰がどこにいて、明日どこへ行くかは、いま誰が知っていますか」
篠原さんは、少し黙った。
「……わたしだね」
「紙になっていますか」
「なってない。頭と、電話の中」
篠原さんは、ポケットから携帯電話を出して、振ってみせた。着信の履歴が、その日だけで20件以上あった。
残ったもの。 請求は取りこぼさなくなったが、その工事で本当にいくら残ったのかは、いまも竣工の2か月後にしか分からない。職人の出面表は、月末に200枚、谷さんが手で打ち込んでいる。そして5つの現場の段取りは、まだ篠原さんの頭と、あの電話の中にある。
一つずつだ、と自分に言い聞かせた。
車に乗り込むとき、事務所の駐車場で、阿部くんがスマートフォンを構えているのが見えた。
明日入る材料の写真を撮っているのだと、あとで聞いた。誰にも頼まれていないのに、自分で撮り始めたのだという。
「あれ、何に使うんですか」と聞くと、阿部くんはこう答えたそうだ。
「まだ分かんないです。でも、あとで誰かが使うかもしれないので」
