【#3】「モノは、できてるんですけどね」 ─ ある金属加工会社の、6時20分

目次

この話について

会社:常盤製作所/社員34名/内陸の工業団地/金属加工(板金・溶接・機械加工)の多品種少量

困っていたこと

  • モノはできている。トラックも待っている。それでも出荷できない。検査成績書が、まだ上がっていない
  • 検査の3人が測って紙に書き、それを事務所でExcelに打ち直し、取引先ごとに違う7種類の書式に貼り替えてPDFにする。1品番20分、月に80枚
  • 書式は1枚も変えられない。取引先の品質保証部が承認した様式で、一度でも違うものを出すと突き返される

一 トラックが、待っている

8月に入って、夕立が続いていた。

工業団地の道は水はけが悪く、雨が上がったあとも路肩に浅い水たまりがいくつも残る。トラックはその上を平気で通っていくので、歩いていると膝から下が濡れた。

常盤製作所に着いたのは、夕方の6時前だった。

工場のほうは、もう静かになっている。機械が2台だけ動いていて、あとは片づけの音がしていた。

置き場に寄った。柱の赤いボタンは、そのまま付いている。上の読み取り機のランプが緑に光っていた。台座のまわりの塗装が少し剥げていて、指の脂で黒くなっている。2か月で、そういう色になっていた。

「使われてますよ」

うしろから声がした。瀬戸さんだった。

「1日に、50回くらい鳴ってます。もう、誰も何も言わなくなりました」

「6月に嫌がっていた方は」

「4番機の方ですね」瀬戸さんは笑った。「あの人、いちばん押してます。ご自分で、ボタンの高さを2センチ下げてくれって言ってこられて」

事務所の窓に、明かりがついていた。

中に入ると、萩野くんが座っていた。ワイシャツではなく、作業服のままだ。机の左に、鉛筆で書かれた紙の束。右にパソコン。目は画面と紙のあいだを、一定のリズムで往復している。

「こんばんは」

「あ、上田さん」

萩野くんは顔を上げたが、手は止めなかった。マウスを動かし、範囲を選び、貼り付ける。その動きに迷いがない。何百回もやってきた人の手だった。

「まだ、かかりますか」

「あと2枚です」

窓の外を見ると、置き場の前にトラックが停まっていた。運転手が運転席のドアを開けたまま、足を外に出して座っている。スマートフォンを見ているようだった。

「あの方、待ってらっしゃるんですか」

「待ってます。6時半の便なので」

「モノは、積んでないんですか」

「モノは、積んであります」

萩野くんは、そこで初めて手を止めた。

「積んであるんですけど、この紙ができないと、出せないんです」

その紙が、検査成績書だった。

作った部品を出荷するとき、寸法をどこでどう測って、どういう値だったかを書いた表を一緒に出す。取引先はそれを見て、受け入れの検査を省く。だから成績書のない荷物は、着いても受け取ってもらえない。モノがどれだけ正確にできていても、紙が無ければ、それは荷物ではなく、ただの鉄の塊だ。

「1枚、どれくらいかかるんですか」

「20分くらいですね。慣れたので」

「今日は何枚ですか」

「6枚です」

2時間だ。萩野くんは製造の人間で、昼は工場にいる。この作業は、工場が終わってから始まる。

6時25分に、瀬戸さんが事務所に入ってきた。

「萩野くん、あと何分?」

「5分です」

瀬戸さんは、うなずいて外へ出ていった。窓越しに、トラックの運転手のところへ歩いていくのが見えた。何か言って、頭を下げている。運転手は、片手を上げて笑っていた。

戻ってきた瀬戸さんに、聞いた。

「いつも、ああやって謝ってらっしゃるんですか」

「いつもじゃないです」

瀬戸さんは、机の上の伝票を揃えながら言った。

「……週に2回くらいですね」

「同じ運転手さんですか」

「同じ方です。もう7年、うちに来てくださってます」

瀬戸さんは、伝票の角を机で叩いて揃えた。

「あの方が優しいので、こっちが甘えてるんだと思います」

6時32分に、萩野くんが席を立った。プリンタから出てきた紙を持って、外へ出ていく。運転手がドアを閉め、エンジンをかけた。

トラックが出ていくのを、事務所の窓から3人で見ていた。

二 20分の中身

翌日から、検査場に立った。

検査場は、工場のいちばん奥にある。仕切りの壁で機械の音を落としてあって、中は静かだった。窓際に測定台が3つ並び、その上に蛍光灯が低く下りている。壁の棚に、金属の部品がいくつか置いてあった。あとで聞くと、限度見本というものだった。

検査は3人でやっている。63歳と61歳と52歳。3人とも、この会社に20年以上いる人だ。

やり方は、こうだった。

部品が置き場に上がってくると、検査の人が箱から1つずつ取り出す。ノギスとマイクロメータで、決められた箇所を測る。11か所ある。測りながら、手元の用紙に鉛筆で数字を書く。

紙は、A4の罫線だけの用紙だった。何を書く欄かは、印刷されていない。

「これ、どこに何を書くかは」

「頭に入ってるよ」

63歳の人が言った。

「上から順に、測る順番だから」

その人は、マイクロメータを軍手の上から持っていた。

「素手だと駄目なんですか」

「握ってると伸びるんだよ、これが。体温でね」

その人は、目盛りを覗き込んだまま言った。

「0.001の話だけどね。うちの仕事だと、そこまでは要らない。でも、癖だから」

書き終わった紙は、検査場の隅のトレイに積まれる。夕方、萩野くんがそれを取りにくる。

わたしは、萩野くんの作業を3週間、横で記録させてもらった。1枚ぶんの時間を、3つに分けて書いた。

  • 紙の数字をExcelに打ち直す:4分
  • 取引先ごとの書式に貼り替える:11分
  • 体裁を直して、PDFにして、確認する:5分

20分のうち、16分が「打ったあと」だった。

貼り替えというのは、こういうことだ。

打ち直したExcelの数字を、取引先ごとの様式に移す。様式は7種類ある。並び順が違い、欄の名前が違い、押印欄の位置が違う。単位の書き方も、「mm」と書く会社と「㎜」と書く会社がある。

「これ、全部手で移すんですか」

「コピーして、貼り付けます。でも、順番が違うので、1行ずつです」

「11行を、1行ずつ」

「はい。あと、桁がずれると全部やり直しなので、1行ごとに見ます」

「間違えたことは」

「あります」

萩野くんは、はっきり言った。

「去年、行がずれたまま出しました。5行目と6行目が入れ替わってて。……向こうが気づいて、電話がきました」

「どうなりましたか」

「入江さんが電話に出て、謝ってくれました。僕は、横で聞いてました」

萩野くんは、そこで少し笑った。笑っているのに、目が笑っていない笑い方だった。この会社の人は、みんなこの笑い方をする。

「でも、これ、僕の仕事なんです」

「はい」

「4年目で、任されてるのって、これだけなので。だから、遅くなってもいいんです」

月に80枚。1枚20分で、月に26時間40分。

もう一つ、数えたものがある。瀬戸さんに出荷の記録を出してもらって、成績書が間に合わずに翌日の便へ回った件数を数えた。

先月、14件だった。

「これ、お客様は何と言ってこられますか」

「言われないです」瀬戸さんは言った。「1日くらいなら。ただ、うち、そういう会社だと思われてると思います」

三 様式相違につき、再提出

作るものは、すぐに思いついた。

7種類の書式を、1つにまとめればいい。項目は同じはずだ。1つの様式で全社に出せるようにすれば、貼り替えの11分は丸ごと消える。

それを瀬戸さんに話したとき、瀬戸さんの顔が変わった。

「それは、できないです」

「難しいですか」

「難しいんじゃなくて、こっちで決められないんです」

瀬戸さんは、机のいちばん下の引き出しを開けた。奥のほうから、クリアファイルを1枚出して、テーブルに置く。

中に、A4の紙が1枚入っていた。うちの成績書だ。右上に、赤いペンで大きく書き込みがあった。

「様式相違につき、再提出」

「3年前です」

瀬戸さんは、ファイルを開かずに言った。

「うちの様式を、少し変えたんです。見やすくしようと思って、欄の順番を入れ替えて」

「どなたが」

「わたしです」

瀬戸さんは、そこで一度、言葉を切った。

「よかれと思って、やりました。誰にも相談しないで。……そうしたら、これが返ってきました」

「その荷物は」

「受け取ってもらえませんでした。1回、持ち帰りです。取りに行ったのも、わたしです」

瀬戸さんは、ファイルを引き出しの奥へ戻した。

「あちらの品質保証の方が承認した様式なので。うちが勝手に変えると、あちらの中でもう一度承認を取り直すことになるんです。そのお願いを、こちらからはできません」

「7社とも、そうですか」

「7社ともです。1社は、40年前の手書きの様式のままです。線が斜めになってるんですけど、そのままです」

「斜めのまま」

「斜めのままです。直していいですかとは、聞けません」

わたしは、自分の案を捨てた。

書式は、1枚も変えない。

その日の夜、宿でノートを開いた。

変えられないものを、書き出してみた。

測り方は変えられない。書式も変えられない。判子も、様式に押印欄がある以上、なくせない。検査の3人が紙に鉛筆で書くやり方も、触るつもりはない。あれは検査そのものだ。

書き終えて、線の引かれていない場所が1つだけ残った。

数字を打ち込む場所だ。

紙から一度Excelへ、Excelから7つの様式へ。数字は、この会社の中で2回移し替えられている。1回目は人でなければできない。2回目は、そうではない。

四 「これ、全部おんなじこと聞いてますよ」

翌週、萩野くんに頼んだ。

「7種類の書式を、全部印刷して、並べてもらえませんか」

「並べて、どうするんですか」

「同じことを聞いている欄に、同じ色を塗ってください。品番の欄はぜんぶ黄色、実測値の欄はぜんぶ緑、というふうに」

萩野くんは、何のためかを聞きたそうな顔をしたが、聞かずに引き受けた。

翌日、コンビニの袋から蛍光ペンを5本出してきた。自分で買ってきたらしい。昼休みと、成績書を打ち終えたあとの10分ずつ。2日かかった。

3日目の朝、萩野くんが7枚を持ってきた。会議用の長机に、横一列に並べる。

塗り終わった7枚は、離れて見ると、同じ模様に見えた。並び順が違うので、色の位置は上下にずれている。だが、使われている色は7枚とも同じだった。

「これ」

萩野くんは、少し興奮していた。

「全部おんなじこと聞いてますよ」

「同じですか」

「同じです。並びは違うんですけど、聞いてる項目は11個で、7社とも一緒でした」

わたしは、1枚ずつ確かめた。本当に同じだった。

品番。ロット番号。材質。測定日。測定者。測定器の管理番号。規格値。実測値が11か所ぶん。判定。備考。責任者の押印。

違うのは、並び順と、欄の名前だけだった。

  • 「実測値」と書く会社、「測定値」と書く会社、「実績値」と書く会社
  • 判定を「合格/不合格」で書く会社、「OK/NG」で書く会社、「○/×」で書く会社
  • ロット番号が8桁の会社と、10桁の会社
  • 日付が西暦の会社と、元号の会社

「なんで、みんな違うんでしょうね」

萩野くんが言った。

「みんな、自分のところで決めたからだと思います」

萩野くんは、7枚を上から順に見ていって、最後にこう言った。

「僕、この紙、4年見てるんですけど」

「はい」

「並べたの、初めてです」

1枚ずつしか見ていなければ、7種類は7種類のままだ。並べて、色を塗って、離れて見て、初めて同じものになる。その2日は、萩野くんがやったから意味があった。わたしが塗っていたら、11項目が同じだと言われても、この人は信じなかったと思う。

わたしは、色の塗られた7枚を、そのまま撮らせてもらった。

五 打つ場所を、1つにする

作ったものは、2つだけだ。

1つ目。 6月に付けた画面に、欄を足した。

検査の置き場には、柱のボタンと読み取り機がある。運んできた人が紙をかざしてボタンを叩くと、その品番が「検査が終わった」として記録される。その記録の下に、実測値を入れる欄を11個足した。

品番も、ロット番号も、材質も、測定日も、打つ必要がない。6月から、そこにもう入っているからだ。萩野くんが打つのは、鉛筆で書かれた11個の数字だけになる。

検査の3人には、何も頼まなかった。紙も、鉛筆も、測る順番も、そのままだ。

「あの人たちのところは、触らないんですか」萩野くんが聞いた。

「触りません」

「なんでですか」

「あそこが、この会社でいちばん正確なので」

2つ目。 7種類の書式を、そのまま出せるようにした。

AIに読ませたのは、萩野くんが色を塗った7枚だった。どこに何を書くかを、こちらからは1つも教えていない。同じ色の欄が同じ意味だということだけが、紙の上に示してある。それと、過去に出した成績書を、1社につき10通ずつ渡した。

半日で、7種類が出るようになった。

ただし、そのままでは使えなかった。萩野くんと二人で、1社ずつ確かめた。

  • 1社目。ロット番号の桁が足りない。頭の「0」が消えていた
  • 2社目。判定が「合格」で出ていた。この会社は「OK」だ
  • 3社目。日付が「2026/8/12」。この会社は「令和8年8月12日」だ
  • 4社目。押印欄が、1行下にずれていた
  • 5社目。手書きの様式の会社。線が斜めなので、文字が枠から出た
  • 6社目と7社目は、直しが要らなかった

「これ、うちで直せないんですよね」

5社目の紙を見ながら、萩野くんが言った。

「直せません。あちらの紙なので」

「じゃあ、文字のほうを傾けるんですか」

「傾けます」

萩野くんは、声を出して笑った。

半分しか動かないものを、毎日見せる。 初日に出たのは2社ぶんで、判定の欄は空のままだった。それでも印刷して、萩野くんの机に置いた。

翌朝、赤ペンで印がついて戻ってきた。「ここ、ずれてます」「これ、うちの判子じゃないです」「この欄、空でいいです。相手も見てないので」。

いちばん多かったのは、位置の直しだった。0.5行ぶんの上下。1文字ぶんの左右。紙で出したときに、枠の中にきれいに収まるかどうか。萩野くんは、それを毎回、印刷して定規で測っていた。

3週間で、直しは19回入った。

7日目に、萩野くんが初めて自分で1枚ぶんを通した。11個の数字を打ち、7社ぶんのうち1社の分を出した。

3分で終わった。

萩野くんは、画面を見たまま、しばらく動かなかった。

「終わり、ですか」

「終わりです」

「……あと、17分あるんですけど」

六 0.02ミリ

18日目に、萩野くんが手を止めた。

その日の分を確かめていたときだ。画面の値と、鉛筆の紙を見比べていて、指が止まった。

「上田さん。これ、違います」

紙には、こう書いてあった。

φ12.02

画面には、こう出ていた。

φ12.00

規格は、12.00のプラスマイナス0.01。紙の値は、上に0.01外れている。

「0.02、って書いてありますよね」

「書いてあります」

「なんで00になってるんですか」

わたしは、その場では答えられなかった。事務所の隅で30分ほど調べて、分かった。

AIが、直していた。

書き方を覚えさせるために、過去の成績書を1社10通ずつ読ませている。その過去の成績書に、規格を外れた値が1つも入っていなかった。

当たり前だ。外れたものは出荷しない。だから成績書には、合格した値しか残らない。

AIは、そこから「12.02は打ち間違いだろう」と判断していた。悪意も、手抜きもない。読ませたものから、素直にそう学んだだけだ。

その説明を萩野くんにすると、萩野くんは黙って画面を見ていた。それから、はっきりした声で言った。

「これ、直しちゃったら、検査してる意味がないです」

「はい」

「僕ら、外れてるかどうかを見るために測ってるので。外れてるやつを直されたら、何のために測ってるのか分からないです」

その日のうちに、直した。

規格を外れた値は、外れたまま出す。 丸めない。近い値に寄せない。そして、外れた値が入ったものは、そこから先へ進まなくなる。PDFにもならないし、印刷もされない。画面に赤く出て、止まる。

「止まっちゃっていいんですか」瀬戸さんが聞いた。

「止まってもらわないと困ります」

その仕組みは、3日後に一度、本当に動いた。

朝いちばんに赤が出た。萩野くんが紙を持って検査場へ行き、63歳の人に見せた。その人はもう一度、同じ部品を測った。

12.02だった。

書き間違いではなかった。その1箱は、出荷されなかった。作り直しになって、2日遅れた。

瀬戸さんが客先に電話をして、事情を話した。電話は10分で終わった。

「怒られましたか」

「怒られてないです」瀬戸さんは受話器を置きながら言った。「向こうの方が、よく気づきましたねって」

夕方、その話を入江さんにした。入江さんは、成績書の最後に判子を押す人だ。

「判子は、なくさないの」

「なくせません。押印欄が、7社の様式にあるので」

入江さんは、少し笑った。

「そう。じゃあ、押すよ」

そして、老眼鏡を外しながら言った。

「止まっていいんだよ。止まるために測ってるんだから」

七 九月に入って、6時20分

9月に入っても、暑さは残っていた。

工業団地の道の水たまりは消えて、かわりに舗装から熱が上がっている。ケヤキの葉はまだ濃く、道に落ちる影がはっきりしていた。

事務所に入ったのは、6時20分だった。

萩野くんの机に、紙の束がなかった。パソコンも閉じている。

「今日は、もう終わりですか」

「終わりました。5時半には」

萩野くんは、作業服のまま立ち上がった。

「1枚、どれくらいになりましたか」

「5分です」

打ち直しの4分は、変わっていない。検査の3人はいままでどおり鉛筆で書き、萩野くんがそれを打つ。減ったのは、そのあとの16分だ。

月に26時間40分かかっていたものが、6時間40分になった。

「翌日便に回ったのは」

瀬戸さんが、出荷の記録を見せてくれた。

先月14件だったものが、1件になっていた。

「1件は、なんだったんですか」

「材料が遅れたやつです。紙じゃないです」

瀬戸さんは、そこを指で叩いた。少し嬉しそうだった。

「紙で止まったのは、ゼロでした」

北島さんが、応接室で同じ表を見ていた。

しばらく黙っていて、それから言った。

「モノじゃなくて、紙で止まってたんですね」

「はい」

「工場のせいだと思ってたんですよ。ずっと」

北島さんは、表を裏返して、また表に戻した。

「6月に、うちの工場は止まってません、モノが止まってます、と言われたでしょう。あれの続きですね。今度は、モノじゃなくて紙だった」

「様式は、1枚も変えていません」

「変えなくて、できたんですか」

「変えられないと教わったので」

北島さんは、少しのあいだ、返事をしなかった。

「……うち、変えられないものが多いんですよ。客先の様式も、単価も、内示も。だから、何もできないんだと思ってました」

北島さんは、表を机に置いた。

「変えられないものは、変えなくてよかったんですね」

帰る前に、検査場に寄った。

63歳の人が、ノギスを拭いていた。手元の用紙は、前と同じ罫線だけのA4だった。

「その紙、変わってないですね」

「変わってないよ」

その人は、ノギスをケースに戻した。

「変えられたら、こっちが困るもんね。40年、この順番で測ってるから」

そして、壁の棚のほうを顎で指した。金属の部品が、いくつか置いてある。

「そのかわり、こっちは変えてほしいんだけどね」

「それは」

「限度見本。キズがどこまでなら出していいか、っていう見本」

その人は、いちばん手前の1つを手に取った。表面が少し曇っていた。

「10年前のやつだよ。いまの品番のじゃない」

事務所へ戻る途中、置き場の柱のボタンが目に入った。赤いボタンの上に、緑のランプ。その下に、6月にはなかった小さな画面が1つ増えている。11個の欄が並んでいるだけの、そっけない画面だ。

残ったもの。 出荷は、紙で止まらなくなった。棚の限度見本は、10年前のまま置いてある。そして、6月に付けたボタンの記録を開くと、「止まっている時間」の中に、まだ潰れていない塊が1つ残っていた。

帰り際、工場を通り抜けた。

3番機の前で、入江さんが1人でチャックを外していた。汗が首を伝っている。手が止まらない。工具箱を見ずに手を伸ばして、目当てのものを取っている。

時計を見た。始めてから、13分だった。

そのとき、通路の反対側で萩野くんが同じ取る作業をしていた。そちらの時間も計ってみた。

35分が経っていて、まだ終わっていなかった。

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