この話について
会社:山桜建設/社員28名/山あいの地方都市/公共工事6割・民間4割/社員の平均年齢51歳
困っていたこと
- 見積もり1件に、工務部長がひとりで20時間。しかも作れるのは、現場から戻った夜9時以降
- やっているのは、図面から数量を拾い、過去の似た工事を探して単価を決める作業。過去の見積書はサーバーに400件以上あるが、探せない
- 間に合わない案件は断るしかない。建設業では、一度断ると次の声がかからない
一 「見積もりが、夜9時からしか作れないんです」
山あいの国道を30分ほど走った先に、その町はあった。
市街を抜ける川沿いに、桜並木が続いている。4月の初め、花はもう終わりかけで、水面に花びらが帯になって流れていた。会社の名前は、この並木から来ているのだと、あとで聞いた。
山桜建設株式会社。2階建ての事務所の前に、白いダンプが2台と、社名の入った軽トラックが4台。
案内された応接室には、A1の図面が2つ、丸めて立てかけてあった。その横に、市の入札公告のコピーと、封の切られていない保守契約の更新通知。
「すみません、現場から直で来たもんで」
古賀修一さん、48歳。山桜建設の社長。作業ズボンに社名入りのポロシャツ、安全靴のままだった。7年前に父親から会社を継いだ。もともとは現場監督で、いまでも自分で図面を見る。
「先に、いちばん困っていることから言ってもいいですか」
古賀さんは、椅子に座るなり言った。
「見積もりが、夜9時からしか作れないんです」
「夜の9時、ですか」
「うちで見積もりを作れるのは、工務部長の篠原ひとりなんです。その篠原が、昼はずっと現場に出ているので。戻って、電話がひととおり終わって、やっと机に向かえるのが9時なんですよ」
古賀さんは、テーブルの封筒を指で押した。積算ソフトの保守契約の更新通知だ。
「3年前に、積算のソフトを入れました。300万円です。それに保守が年間28万円」
「使われていますか」
「半年で、誰も開かなくなりました。……ソフトが悪いんじゃないんです。うちが悪い。使わなかったので」
「なぜ、開かなくなったんでしょうか」
「入力がね、終わらないんですよ」
古賀さんは苦笑した。
「数量を全部打ち込めば、単価は自動で出るんです。でも、打ち込むのに手で計算するのと同じだけ時間がかかる。しかも出てくる数字が、うちのやり方と合わない。歩掛りっていうんですけど、標準の数字が入ってるんですね。うちの職人が実際に何日でやるかとは、違うんです」
「合わせられなかったんですか」
「合わせるには、うちの実績を全部入れないといけない。誰が入れるんですか、それを」
わたしはうなずいた。
「もう一つ、先に言わせてください」
古賀さんは、居住まいを直した。
「人を減らす話では、ないんです。うちは、人が足りないので。減らしたい人間なんて、一人もいない。篠原にも、いちばん若い阿部にも、できればあと10年いてほしいんです。そのために何ができるのか、一緒に考えてもらえませんか」
わたしは、その言葉をノートに書いた。一緒に考えてほしい、と最初に言った経営者は、初めてだった。
「で」古賀さんは膝に手を置いた。「何から始めるんですか」
「まず、3日いただけますか」
「3日、何をするんですか」
「座って、見ています」
古賀さんは、冗談かどうかを測るような目をした。
「……誰をですか」
「見積もりを作っている方です」
「篠原ですね。あの人、昼はいませんよ。監督が5人しかいないので、部長も現場を持ってます。戻るのは早くて夕方の5時です」
「では、夜にご一緒させてください。夜9時からで構いません」
古賀さんは、窓の外に目をやった。駐車場のむこうに、資材置き場が見える。
「……夜の時間に会社へ来る人は、初めてです。わたしはこの9時からの作業時間を、7年間止められずにいます」
わたし、上田健太。FDE(フォワードデプロイド・エンジニア)という肩書で、よその会社に入り込んで、そこで見たものをその場で形にする仕事をしている。この春で1年になった。
去年は海沿いのホテルにいた。月末の締めに丸2日かかっていたのを、2時間半にした。人の隣に座って、手の動きを見る。 それだけで半分は分かる、と思っていた。
思っていた、と過去形で書くのには理由がある。この現場では、見ても分からなかった。
二 夜の9時から始まる仕事
初日は、朝から篠原さんについて回った。
篠原正さん、60歳。工務部長。山桜建設に32年いて、そのうち30年、積算をひとりでやっている。
朝7時半に出社し、8時前には車で出る。その日は現場が3つあった。それぞれに顔を出し、職人と話し、写真を撮り、次へ移動する。昼は車の中でパンを食べ、午後は市役所で設計変更の打ち合わせをした。会社に戻ったのは5時前だった。
そこから、電話が始まる。明日の生コンの手配。足場屋の日程。材料の納期が遅れるという連絡。職人からの「明日、雨降ったらどうします」。篠原さんは受話器を耳と肩で挟み、ホワイトボードの予定を書き換えていく。
7時を過ぎて、事務所が静かになった。谷さんが帰り、社長が帰り、若い監督が一人だけ残って写真の整理をしていた。篠原さんはそこでようやくコーヒーを入れ、机を片づけ始めた。
夜、9時になった。
篠原さんは、丸めた図面を広げた。A1の紙が机からはみ出す。四隅を電卓と湯呑みとテープの束で押さえ、三角スケールを取り出す。
そして、蛍光ペンで塗り始めた。
わたしは隣に、折りたたみの椅子を広げた。鞄から出したのは、方眼のメモ帳とボールペンだけだ。パソコンは開かない。
そして、30分で置いていかれた。
篠原さんは、図面のあちこちを塗りながら、時々エクセルに数字を打ち込む。その数字がどこから来たのかが分からない。図面には寸法が書いてあるが、篠原さんが打っている数字は、そのどこにも書かれていない。
「あの、いま入れた38.5というのは」
「延べだよ。壁の面積。開口を引いてある」
窓とドアの分を引いた数字だ、ということが、しばらくしてから分かった。だが、その引き算を一瞬でやった方法は、分からなかった。
10時を回ったころ、篠原さんが席を立って、サーバーの置いてある隣の部屋へ行った。戻ってきた顔は、少し不機嫌そうだった。
「前にね、似たようなのをやってるはずなんだよ。3年か4年前に、中学校の外壁で。……あるはずなんだけどね」
篠原さんはエクセルに向き直った。
「探すより、作ったほうが早い」
その一言を、メモ帳に書いた。
11時20分、篠原さんは図面を丸めて帰り支度を始めた。
「今日は早いほうだよ」
「これ、毎日ですか」
「立て込んでるときはね。今月は3件ある」
3日目の夜、思い切って聞いてみた。
「篠原さん。これって、数字を拾ってるんですよね」
篠原さんは、初めて手を止めて、わたしのほうを見た。
「違うよ」
「違いますか」
「数字を拾ってるんじゃないの」
篠原さんは、広げた図面に手を置いた。
「頭の中で、一度建ててるの」
「……建てる」
「ここに足場を組んで、こっちから材料を入れて、この職人が何人で何日。雨が降ったら何日ずれる。近所に学校があるから、朝の登校時間は車を入れられない。そういうのを、全部いっぺんに考えてる。数字は、そのあとで出てくるだけ」
篠原さんは、蛍光ペンのキャップを閉めた。
「だからね、機械には無理だよ。あのソフトも、そこが分かってなかった」
三 図面が読めない
4日目の朝、ノートを見返して、自分が何も分かっていないことを認めた。
3日間、篠原さんの隣に座った。エクセルの操作は追えたし、何時に何をしていたかも記録した。だが、なぜその数量になるのかが、まったく分からない。分からないまま、道具は作れない。
その夜、国道沿いの宿で、3日ぶんのメモを最初から読み返した。
わたしは3日間、篠原さんに「分かりません」と言っていない。分かったふりをして、隣に座っていた。分かったふりをしている人間に、人は教えない。
もう一つ、気づいたことがある。
この会社で、積算が分かる人は何人いるのか。篠原さん。社長は「昔は自分もやった」と言っていたが、いまの単価は分からないと言っていた。ほかの監督3人は、現場の管理はできるが積算はやらない。
一人だった。
わたしに分からないのは、当たり前だ。そして、それはわたしだけの問題ではなかった。
翌日の昼、事務所に残っていた若い監督に声をかけた。阿部くん、26歳。現場監督3年目。この会社でいちばん若い社員だ。
「阿部さん。図面の読み方を、教えてもらえませんか」
阿部くんは、驚いた顔をした。
「え、僕がですか」
「ぼく、図面が読めないんです。3日座っていて、何も分かりませんでした」
阿部くんは、しばらく黙って、それから笑った。
「いいですよ。というか、僕でよければ」
その日の昼休み、阿部くんはA2の図面を1枚持ってきて教えてくれた。平面図と立面図と断面図の関係。通り芯。寸法の入り方。1時間で、ようやく「壁の面積」の意味が分かった。
「すみません、ありがとうございます」
「いえ。……あの、でも」
阿部くんは、図面を丸めながら言った。
「僕も、拾い出しはできないです。図面は読めるんですよ、現場の監督なので。でも、そこから見積もりを作るのは、やったことがないです」
「教わっていないんですか」
「教わってないです」
阿部くんは、少し言いにくそうにした。
「篠原さん、夜9時からやってるじゃないですか。あれ見てて、教えてくださいって、言えます?」
わたしは、何も言えなかった。
「僕が聞いたら、あの人、絶対に教えてくれるんですよ。優しい人なので。でも、それって篠原さんの帰る時間が、もっと遅くなるってことなので」
その夜、わたしは阿部くんを誘って、二人で篠原さんの隣に座った。
篠原さんは顔を上げて、少し眉を寄せた。
「なんで二人もいるの」
阿部くんが、口を開くまでに間があった。
「……僕も、覚えたいので」
篠原さんの手が、止まった。しばらく、誰も何も言わなかった。事務所の蛍光灯が、1本だけ切れかけていて、時々ちらついていた。
「そう」
篠原さんは、それだけ言って図面に向き直った。だが、そこからの説明は、前の3日間とは別のものになった。
「見てて。ここ、階段の下がりがあるでしょう。これがあるとね、足場の段取りが変わるの」
その夜、篠原さんが帰ったのは12時前だった。いつもより遅かった。わたしは、この人の帰りをさらに遅くした。
四 断った11件
5日目から、時間を測り始めた。見積もりを1件やるあいだ、何にどれだけかかっているかを、横で記録させてもらう。作業は止めない。開始と終了の時刻を書くだけだ。
3週間で、8件を見た。住宅のリフォームで5時間、店舗の内装改修で9時間。市発注の保育園の外壁改修は、26時間かかった。平均すると、1件およそ20時間だ。
だが、内訳のほうが問題だった。その20時間を、3つに分けて記録していた。
- 図面を読んで数量を拾う:6時間
- 過去の似た工事を探して、単価を決める:11時間
- 見積書の形に整える:3時間
半分以上が、探す時間だった。
「篠原さん、この探す時間なんですけど」
「ああ、それね」篠原さんは笑った。「サーバーにあるはずなんだよ、全部」
見せてもらうと、「見積」というフォルダの中に、年度ごとのフォルダがあり、エクセルファイルが並んでいた。数えると、412件。ファイル名は「2021_○○様邸_見積_最終.xlsx」「同_最終2」「同_最終_これ」といった具合だった。
「どれが本物か、分かりますか」
「わたしは分かるよ。作ったから」篠原さんは言った。「ほかの人には無理だね」
次に、総務経理の谷さんに聞いた。55歳。請求と支払いをやっている人だ。
「去年、見積もりの依頼が何件来たか、分かりますか」
「……ないですねえ」谷さんは首をかしげた。「受注したものは工事台帳になりますけど、出しただけのものは残ってないです」
その日の夜、篠原さんに同じことを聞いた。
篠原さんは、机の引き出しから手帳を出した。B6の、表紙が擦り切れた手帳だった。
「これに書いてるよ」
中に、電話で受けた引き合いが日付順に書かれていた。会社名、工事の内容、金額の規模、出したか出さなかったか。3年分あった。
「電話で聞いた話は、忘れるからね」
その手帳を数えさせてもらった。
去年1年で、引き合いは107件。見積書を出したのが96件。
出せなかったのが、11件だった。
11件の欄には、篠原さんの字で短く理由が書いてあった。「日程」「手が回らず」「日程」「他社さん決まり」「手が回らず」。
「どうやって断るんですか」
「電話でね。すみません、今ちょっと立て込んでまして、日程的に厳しくて、って」
篠原さんは、手帳を閉じた。
「あれがね、いちばん嫌なんだよ」
翌週、わたしは古賀さんに紙を1枚持っていった。
書いたのは3行だけだった。
- 去年、見積もりの依頼が107件。うち11件、出せていません
- 11件のうち9件は民間で、3件は初めてのお客様。工事規模の合計は、およそ8,600万円
- そして、その11社から、その後の引き合いは0件です
古賀さんは、紙を長く見ていた。
「……11件。うち、断ってたんですね」
「出していれば、3割は取れています。御社の受注率だと2,600万円。粗利で400万円弱です」
古賀さんは、うつむいた。
「それより、こちらが痛いと思います」わたしは最後の行を指した。「一度断ると、次の声がかからない。11社ぶんの、これから先が消えています」
古賀さんは、しばらく黙っていた。
「篠原は、それを知ってて断ってたんですね。……わたしには、言わないんですよ。あの人」
五 サーバーの中の、412件
作るものは、決まっていた。探す時間を、なくす。
拾い出しは触らない。頭の中で建物を建てる作業は、機械にはできない。3年前の300万円のソフトは、そこをやらせようとして使われなくなった。やるのは、その手前だ。
まず、412件のエクセルをAIに読ませた。様式は年によって3種類あり、列の位置も違う。それでも、工事名・発注者・年月・工種・数量・単価・金額を1件1行に整理させた。
412件が表になるまで、半日だった。 機械が動いたのは40分ほどで、あとは出てきたものを篠原さんと二人で直していた。その最初の直しが、いちばん大事だった。
AIは、工種の名前を勝手にまとめていた。「防水工事」「屋上防水」「ウレタン防水」「シート防水」——この4つを、1つの棚に入れていた。
篠原さんは、それを見て顔をしかめた。
「これはだめだ。ウレタンとシートは別物だよ。平米で倍近く違う。同じ棚に入れたら、見積もりが2倍か半分になる」
その場で、やり方を変えた。
AIに寄せさせるのをやめた。 名前は書いてあるとおりに全部残し、「これとこれは同じもの」「これとこれは別もの」の線は、篠原さんに引いてもらう。
篠原さんは、1時間で38行の対応表を作った。「屋上防水」と「陸屋根防水」は同じ。「外壁塗装」と「外壁改修」は別——改修には下地の補修が入るからだ。
「これ、誰が作れるんですか」
「わたししか作れんね」篠原さんは言った。「でも、紙にすると、たったこれだけなんだな」
わたしはその一言を、ノートに書いた。去年、海沿いのホテルでも、似たことを言った人がいた。30年ぶんが紙1枚に収まったのを見て、その人は少し笑っていた。
次に、単価の話をした。
過去の単価をそのまま出しても使えない。同じ「外壁塗装」でも、現場によって値が変わる。篠原さんは、それを頭の中で補正している。質問は一つだけにした。
「同じ工事でも、値段が変わるのは、どういうときですか」
篠原さんは思いつくままに喋った。録音して文字にし、AIに整理させると、条件が12個出てきた。
篠原さんは、それを見て3つ消した。
「これは違う。冬場かどうかは関係ない。関係あるのは、山側で日が短いかどうか」
そして、2つ足した。
「学校が抜けてる。学校は夏休みしか工事できないから、突貫になる。それと、道」
「道」
「現場までの道が狭いと、4トンが入らないの。2トンで往復するか、手運びになる。これで人工が全然違う」
残ったのは、11個だった。
階数。道幅。公共か民間か。工期の制約。山側か里側か。既設の状態。職人が自社か応援か。近隣に学校や病院があるか。積雪で止まる日数。材料が在庫か取り寄せか。
そして、11個目は施主との付き合いだった。初めての客先は、少し厚く見る。
それを書いたとき、篠原さんが「これ、書いていいのかな」と笑った。
「書いてください」わたしは言った。「これがなくなったら、御社の見積もりじゃなくなります」
六 「これ、どこの数字?」
できたものは、大した仕掛けではない。
工事の種類と規模と場所を入れると、過去の似た工事を3件出してくる。そのときの工種の並びと、数量と、単価が表になって出る。11個の条件がひっかかった行には、印がつく。
見積書ではない。見積書の下ごしらえだ。
作り方は、いつもどおりにした。半分しか動かないものを、毎日見せる。
初日の版は、外壁と防水しか出せなかった。
「土工は?」
「まだです。明日やります。この並び順、これでいいですか」
「上から順に、工程の順にして。わたし、そう並べないと気持ち悪いから」
3日目、篠原さんが画面を指さして言った。
「これ、どこの数字?」
わたしは、表のいちばん右の列を指した。
2023年9月/○○小学校 屋上防水改修/見積書34行目
篠原さんは、自分でそのファイルを開いて、34行目を見た。
「……合ってる」
「はい」
「合ってるときはいいんだよ」篠原さんは言った。「怖いのは、合ってるように見えて違う現場の数字が入ってるとき。よその現場の単価で札を入れたら、その工事は最初から赤字だからね」
「だから、どこから持ってきたかを必ず出します」
篠原さんは、画面から目を離さずに言った。
「合ってるかどうかは、あんたが決めるんじゃなくて、わたしが決めるから」
それが、この道具のいちばん大事な仕様になった。
17日間で、篠原さんの直しは31回入った。並び順を工程順に。単価は税抜で揃える。3年より古い単価には色をつける——材料が上がっていて、そのままでは使えないからだ。
「色つけて」が多かった。篠原さんは、数字そのものより、どこを見なくていいかを先に決める人だった。
10日目に、篠原さんが聞いた。
「あんた、直すの早いね。夕方に言ったやつが、朝には直ってる」
「1行ずつ書いているわけではないので」わたしは言った。「言われたことをAIに伝えて、動くようになったのを確かめて持ってきます。たいてい、その日のうちです」
「じゃあ、遠慮せんでいいわけだ」
「遠慮されるほうが困ります。直した回数だけ、篠原さんの道具になるので」
12日目に、阿部くんが自分から使い始めた。
担当している現場で、小さな追加の改修が出た。いつもなら篠原さんに頼むところだ。阿部くんは、たたき台を出して埋めて、篠原さんの机に紙を置いた。
「これ、合ってますか」
篠原さんは、赤ペンで19か所直した。
「19か所も間違えました」阿部くんが情けない声を出した。
「19か所で済んだのよ」篠原さんは言った。「わたしの1年目は、全部だった」
わたしは、離れた席でそれを聞いていた。
阿部くんは、「教えてください」とは言えなかった。だが、紙を1枚出して「合ってますか」と聞くことは、できた。
3週目、古賀さんに報告に行った。
古賀さんは画面をひととおり見て、それから聞いた。
「で、これ、うちは何を入れ替えたことになるんですか」
「何も入れ替えていません」
古賀さんは、画面を見たまま動かなくなった。しばらくして、こう言った。
「……300万のやつは、なんだったんでしょうね」
「そもそも、今回のものは積算ソフトではありません。あれは拾い出しを機械にやらせるものです。今回は、拾い出しは篠原さんのままです」
「じゃあ、何を機械にやらせたんですか」
「探す仕事です」
古賀さんは、一瞬きょとんとした。
「1件20時間のうち、11時間が『過去の似た工事を探す』時間でした。そこが2時間になります。拾い出しの6時間は、変わりません」
「1件20時間が」
「9時間半です。月に9件来ますから、180時間が85時間に」
「残業代で言うと」
「そこは、副産物だと思ってください。本題は、11件を断らなくてよくなることです」
「それと、引き合いの記録は篠原さんの手帳にしかありません。会社の記録になっていないので、御社は何件断っているかを去年まで知りませんでした。これから来るぶんは、ここに入れてもらいます」
「ダッシュボードとか、原価の管理とか、そういうのは」古賀さんが遠慮がちに聞いた。「ソフト屋さんは、いつもそういう話をされるんですけど」
「今回は、作りません」
古賀さんが、ペンを置いた。
「作れないわけではありません。ただ、いま作っても誰も見ません」わたしは言った。「工事が終わるまで原価が締まらないので。まずそこを直さないと、画面だけ立派になります」
古賀さんは、しばらく黙って、それから笑った。
「うちの父が聞いたら、喜ぶと思います。あの人、いまだに毎朝8時に来るんですよ。9時には帰りますけど。……見積もりの話をすると、必ず『機械に金を使うな、人に使え』って言うんです」
七 4月の見積もり
1か月後、もう一度、山桜建設に寄った。桜はすっかり終わっていて、川沿いの並木は青い葉になっていた。
事務所に入ったのは夜の7時だった。篠原さんの机に、図面は広がっていなかった。
「今日は、もう終わったんですか」
「終わったよ」篠原さんは、コーヒーを飲んでいた。「先週の学校のやつね。26時間かかってたのが、11時間で出た。だから今日は、もう帰る」
「夜、会社に残る日は」
「週に2日くらいかな。前は5日だった」
手帳のことを聞くと、篠原さんは引き出しから例のB6を出して、4月のページを開いた。
引き合いが11件、書いてあった。全部に「出した」と書いてあった。
「断ったのがない?」
「ないよ」篠原さんは、少し嬉しそうだった。「4月で断らなかったのは、何年ぶりかな」
そのうちの1件は、初めての客先だった。市外の工場の改修で1,400万円。相見積もりになったが、山桜建設が取った。
「なんで取れたんですか」
「早かったからだと思う。向こうの担当者に言われたよ。3社に声かけて、いちばん最初に持ってきてくれたって」
阿部くんは、その月に見積書を3本作った。3本目の赤は、7か所だったという。
帰り際、篠原さんが資材置き場のほうまで一緒に歩いてくれた。外はもう暗くて、照明の下に鉄筋の束が積んであった。
「あんたさ」篠原さんが言った。「4日目に、『分かりません』って言ったでしょう」
「言いました。何も分からなくて」
「あれでね」
篠原さんは、ポケットに手を入れた。
「30年やってて、初めてだったの。この仕事を、分からないって言った人が。……みんな『なるほど、よく分かりました』って言って帰るのよ。分かってないのにね。分かってたら、あんなソフト売らないでしょう」
篠原さんは、少し笑った。
「分からないって言われたから、教える気になったの。それだけ」
わたしは、結局、最後まで図面が読めるようにはならなかった。それでよかったのだと思う。 わたしがやったのは、読める人が、読むことだけに時間を使えるようにしたことだけだ。
古賀さんが、駐車場まで来た。
「上田さん。次は、請求を見てもらえませんか。谷が言うんですよ。追加工事のぶんが、請求できてない現場があるって」
事務所の窓から、谷さんがこちらを見ていた。目が合うと、少し困った顔で会釈をした。
残ったもの。 見積もりは速くなったが、その工事でいくら残ったのかは、いまも竣工の2か月後にしか分からない。手書きの出面表は、月末に200枚、谷さんが1枚ずつ打ち込んでいる。5つの現場の段取りは、篠原さんの頭とあの電話の中にあって、雨が1日降るたびに組み直される。
焦るな、と自分に言った。
この3週間ではっきりしたのは、この会社に足りなかったのは、時間ではなく、聞ける形だったということだ。阿部くんは聞きたいことを聞けず、篠原さんは11件断ったことを社長に言えずにいた。効いたのは道具ではなく、紙を1枚、机に置けるようになったことのほうだ。
車に乗り込むとき、事務所から谷さんが小走りで出てきた。手に、伝票の束を持っていた。
「わたし、何年も前から言ってるんです。現場で決まったことが、こっちに回ってこないって。……でも、たぶん、誰も悪くないんですよ」
谷さんは、伝票を胸の前で抱え直した。
「現場の人、あれ、忘れてるんじゃなくて。言う相手がいないんだと思います」
次にここへ来るのは、梅雨に入ってからになる。
