【#6】「3日ほど、いただければ」 ─ ある金属加工会社の、応接室

目次

この話について

会社:常盤製作所/社員34名/内陸の工業団地/金属加工(板金・溶接・機械加工)の多品種少量

困っていたこと

  • 引き合いが来てから見積もりを出すまで、3日。早い会社はその日のうちに出す。だから新しい客の仕事が取れない
  • 積算の根拠は、20年前の本に載っている標準の数字。この工場が実際に何分でやっているかとは、違う
  • 工場長は、あと1年で定年になる

一 3日ほど、いただければ

4月になって、また工業団地のケヤキが芽吹いていた。

1年前と同じ景色だ。同じ道を歩いて、同じ前庭に入って、同じ場所に車を停める。違うのは、置き場の柱に赤いボタンが4つ付いていることと、検査場の棚に写真が並んでいることだけだった。

応接室に通されて、5分ほど待った。

隣の部屋から、北島さんの声が聞こえてくる。

「……ええ、図面さえいただければ。3日、お時間をいただけますか。……はい、必ずお出しします」

受話器を置く音がして、少しして北島さんが入ってきた。ワイシャツにネクタイ、その上に紺の作業服。1年前と同じ格好だった。

「すみません、お待たせして」

「いまの、新しいお客様ですか」

「1月にお話しした方です。覚えてます?」

覚えていた。12月に返品を追っていたとき、隣で同じ電話をしていた。あのときも「3日」と言っていた。

「取れましたか」

「取れませんでした」

北島さんは、あっさり言った。

「あちらから、翌日に電話があって。もう他社さんに決めたって」

「1日で」

「1日です。うちが図面を見はじめる前に、決まってました」

北島さんは、テーブルに手を置いた。

「上田さん。うち、この1年でだいぶ変わったと思うんですよ」

「変わったと思います」

「工場の中は、見えるようになりました。書類も止まらないし、注文も朝のうちに流れる。段取りも22分です。……不良も追えるようになりました」

北島さんは、指を折っていた。

「でも、新しいお客様が1件も増えてないんです」

「1年で、何件くらい引き合いがありましたか」

「瀬戸さんが数えてます。……たしか、38件です」

「そのうち、新規は」

「11件だと思います。取れたのは、1件です」

北島さんは、そこで言葉を切った。

「わたし、この1年、社内ばっかり見てました」

「見る必要は、あったと思います」

「あったと思います。……ただ、うち、去年より作れる会社になってるんですよ。段取りが22分になったぶん、機械が空いてるんです」

「空いていますか」

「空いてます。去年と同じ人数で、たぶん2割は多く作れます。でも、その2割ぶんの仕事が来てないので」

北島さんは、湯呑みを回した。

「うち、いま、待ってるだけなんです」

その日、瀬戸さんに引き合いの記録を出してもらった。

去年1年で38件。うち新規が11件。見積もりを出したのは38件全部で、断ったものは1件も無い。取れたのが16件、そのうち新規は1件だった。

「出したのに、取れなかった22件は、どうなったんでしょう」

「聞いてないです」瀬戸さんは言った。「こちらからは、聞きにくいので」

「理由が分かるものは」

「新規の10件は、たぶん遅かったからだと思います。あちらから、もう決まりましたって連絡が来るのが、だいたい2日目か3日目なので」

こちらが図面を見ているあいだに、決まっている。

二 誰が、何を、何日

翌週から、見積もりを1件ずつ見せてもらった。

引き合いが来ると、こう動く。

1日目。 図面が届く。北島さんが受け取って、入江さんに渡す。入江さんは、その日の夜か、翌朝に見る。昼は工場にいるからだ。

2日目。 入江さんが工数を出す。「この形なら、1個あたり何分」という数字を、A4のメモに鉛筆で書く。それを瀬戸さんに渡す。

3日目。 瀬戸さんが材料を調べる。材料屋に電話をして、単価と納期を聞く。それが返ってくるのが、だいたい半日後。その数字を持って、北島さんが値段を決める。

「3日というのは、待ち時間ですね」

そう言うと、北島さんはうなずいた。

「作業自体は、たぶん3時間くらいです」

3週間で、5件を見た。実際にかかった作業時間を測ると、合計で17時間だった。1件あたり3時間半。

残りの60時間以上は、誰かが誰かを待っている時間だった。

入江さんが図面を見るところに立ち会わせてもらった。夜の7時、事務所の入江さんの机だ。

入江さんは、A3に印刷した図面を広げて、三角スケールを当てた。

「これはね、まず何回つかみ替えるかを見る」

「つかみ替え」

「チャックで握るところ。1回で終わるか、ひっくり返すか。ひっくり返すと、それだけで倍かかる」

入江さんは、鉛筆で図面に丸を3つ書いた。

「あと、この穴。これ、深いね。ドリルが3回入る」

入江さんは、図面を裏返して、また表に戻した。

「あと、これ。材料が丸棒か、切板かで変わるの。丸棒なら、突っ切りが入る」

「その判断は、どこを見て」

「形。この長さでこの径なら、丸棒で取ったほうが安いから」

わたしは、入江さんの手元を見ていた。三角スケールを当てているが、寸法を測っているわけではない。当てて、外して、また別の場所に当てる。測っているのではなく、確かめている。

15分ほどで、A4のメモに数字が並んだ。

素材取り 2分/荒 8分/仕上げ 6分/穴 4分/面取り 2分/検査 3分

「合計25分。1個あたり25分だね」

「その数字は、どこから」

入江さんは、机の引き出しから本を出した。

厚い本だった。表紙が黄色く変色していて、背が割れている。加工の標準時間が、材質と工程ごとに載っている本だ。

「これ、いつのものですか」

「20年前かな。先代が買ったやつ」

「いまも、この数字を使ってらっしゃるんですか」

「使ってるよ。……ただ、そのまま使うわけじゃないの」

入江さんは、本のページを指で押さえた。

「ここに8分って書いてあるでしょう。うちの3番機なら6分で終わる。だから、頭の中で引くの」

「どれくらい引くんですか」

「ものによる」

入江さんは、そこで少し笑った。

「勘だね。これは」

「勘の中身を、聞いてもいいですか」

「聞かれても困るよ」

入江さんは、本を閉じた。

「たとえば、この本の8分。これはね、新品の刃物で、腕のいい人が、機嫌のいい機械でやったときの数字なの。うちの3番機は8年目だし、刃物は3回研いだやつだし、やるのは萩野かもしれない」

「それを、引いたり足したりされている」

「そう。だから、その日によっても違うんだよ」

入江さんは、そこで少し笑った。

「困るでしょう。わたしが辞めたら」

三 勘の中身

その週、瀬戸さんに過去の見積もりを出してもらった。

3年ぶんで、312件あった。そのうち、受注できたのが141件。

わたしは、その141件について、見積もりのときの工数と、実際にかかった工数を突き合わせようとした。

そして、突き合わせられないことに気づいた。

実際にかかった工数の記録が、無い。

いや、正確には、無かったのは去年の5月までだ。

6月からは、ある。

置き場の柱にボタンを付けたのは去年の6月だ。それから10か月、モノが次の工程へ移るたびに叩かれている。何がいつどこへ行ったかが、全部残っていた。段取り替えを撮ったときの記録もある。

10か月ぶん、この工場が実際に何分でやったかが、そこにあった。

わたしは、その1年ぶんを取り出して、品番ごとに並べ直した。

出てきた数字は、入江さんの見積もりとずれていた。

  • 見積もりで25分と見ていたものが、実際は31分
  • 見積もりで40分と見ていたものが、実際は34分
  • 見積もりで15分と見ていたものが、実際は28分

ずれの大きさはばらばらだった。多く見ているものもあれば、少なく見ているものもある。

平均を取ると、実際のほうが14パーセント多かった。

その紙を、入江さんの机に置いた。

入江さんは老眼鏡をかけ、指で行を追いながら、長いこと読んでいた。

「これ、本当?」

「押されたボタンから出した数字です」

「じゃあ、本当だね」

入江さんは、紙を置いた。

「わたし、少なく見てたんだ」

「全部ではないです。3割は、多く見てらっしゃいます」

「そこじゃないんだよ」

入江さんは、首を振った。

「当たってるかどうかが、いままで分からなかったの。それが問題だったんだよ」

そして、こう続けた。

「うちがこの仕事でいくら残ったかって、誰も知らないでしょう。だから、わたしの見積もりが合ってたかどうかも、誰も知らない。20年、答え合わせをしてないの」

わたしは、その言葉をメモ帳に書いた。

去年の4月に、北島さんは「利益がどの仕事から出ているのか分からない」と言った。あれは、経理の話だと思っていた。原価を集計していないから分からないのだ、と。

そうではなかった。

この会社には、答え合わせの材料が1つも無かった。見積もりの数字も、実際の数字も、どちらも紙とその人の頭の中にあって、突き合わせようがなかった。去年の初夏に柱へ付けた4つのボタンは、工程を見るためのものだった。10か月たって、それが答え合わせの片方になっていた。

北島さんにも、同じ紙を見せた。

「14パーセント」

北島さんは、その数字を指でなぞった。

「うち、去年の経常が2,100万です。売上の2.6パーセントですね」

「はい」

「工数が14パーセントずれてても、2.6パーセント残ってるってことは……」

北島さんは、そこで顔を上げた。

「取れてる仕事のほうが、いいってことですか」

「そうだと思います。取れていない仕事のほうを、高く見ていた可能性があります」

「じゃあ、断らなくていい仕事を断ってたかもしれない」

「その逆もあります」

四 「うちの数字で出すと、高いよ」

作るものは、決まっていた。

入江さんの勘を、1年ぶんの実際の数字に置き換える。

図面から工程の並びを出すのは、入江さんの仕事のままだ。そこは機械にはできない。つかみ替えが何回か、穴が何回入るか、それを決めるのは入江さんが図面を読んだ結果だ。

やるのは、そのあとだ。入江さんが並べた工程に、この工場の実際の分数を当てる。

その説明をしたとき、入江さんは、しばらく黙っていた。

「あんた、それ、やめたほうがいいと思うよ」

「なぜでしょうか」

「うちの数字で出すと、高いよ」

入江さんは、はっきり言った。

「14パーセント多いんでしょう。そのまま出したら、いままでより高い見積もりが出る。取れなくなるよ」

わたしは、すぐには言い返せなかった。

その夜、宿で数字を並べ直した。

入江さんの言う通りだった。実際の工数をそのまま使うと、見積もりの単価は上がる。上がった分だけ、失注する。

だが、もう1つ見えたことがあった。

14パーセントのずれは、均一ではなかった。

数量の少ない仕事ほど、ずれが大きい。10個以下の注文では、実際が見積もりの1.4倍になっている。100個を超える注文では、逆に0.9倍だった。

理由は、すぐに分かった。段取り替えだ。

段取り替えは、10個作っても1000個作っても1回15分から22分かかる。10個の注文なら、1個あたり2分の段取りが乗る。1000個なら、0.02分だ。

入江さんは、そこを一律で見ていた。本に載っている標準の数字は、数量を前提にしていないからだ。

翌日、その紙を持っていった。

「入江さん。高くなるのは、10個以下の仕事です」

「そうなの」

「100個を超える仕事は、いままでより安く出せます。実際は、見積もりより速く終わっているので」

入江さんは、老眼鏡を外して、目のあたりを押さえた。

「……小さいのを、安く受けすぎてたってこと?」

「はい」

「そりゃ、忙しいわけだ」

入江さんは、椅子の背にもたれた。

「1日6回、段取り替えてるでしょう。あれ、小さい注文が多いからなんだよ。……で、その小さい注文が、いちばん安いの」

「安くしていたのは、誰でしょうか」

「わたしだね」

入江さんは、あっさり言った。

「本の数字で出してたから。本には、段取りは書いてないの。1個あたり何分としか書いてないから」

そこで、少し黙った。

「あんた、これ、社長に言うの?」

「言います」

「言っていいよ」入江さんは言った。「20年、間違ってたって言っていい。……ただ、間違ってたって分かったのは、去年ボタンを付けたからだとも言っといて」

わたしは、その2つを両方、北島さんに言った。

五 1年ぶんの、実際

作ったものは、単純なものだ。

入江さんが図面を見て、工程の並びと、つかみ替えの回数と、穴の数を入れる。数量を入れる。それだけで、この工場の実際の分数が出る。

分数は、1年ぶんの記録の中央の値を使った。平均ではない。平均だと、材料待ちで長く止まったものが混ざって、伸びてしまうからだ。

出てきた数字の横に、必ずその数字がどこから来たかを出すようにした。

「この工程の分数は、去年5月から今年3月までの、同じ形の品番47件の実績。中央値」

入江さんは、その行を見て言った。

「これ、あったほうがいいね」

「なぜですか」

「疑えるから」

入江さんは、画面の1行を指した。

「47件で出てるなら、まあ信じる。3件だったら、わたしは自分の勘のほうを取るよ」

その日から、根拠が10件未満の工程には、印がつくようになった。

印がついた工程は、入江さんが自分の数字で上書きできる。上書きすると、その理由を1行書く欄が出る。

「これ、書かないと進めないの?」

「進めます。空欄でも出ます」

「じゃあ、書かない人もいるね」

「います」わたしは言った。「ただ、その1行が無い数字は、来年また誰かが疑うことになります」

入江さんは、それを聞いて、最初の1件に理由を書いた。

「この形は、うちの機械だと1回で握れない。本は1回で握る前提」

1行が、そこから増えていった。3週間で41行になった。萩野くんが、それを印刷して自分のロッカーに貼っている。

この道具も、途中のまま毎朝見てもらった。初日に数字が出たのは旋盤の工程だけで、板金も溶接も空欄のままだ。それでも印刷して、入江さんの机に置いた。

3週間で、直しは26回入った。

いちばん大きい直しは、5日目に出た。

「これ、うちがやってない工程が入ってる」

入江さんが指したのは、熱処理だった。この工場は熱処理をやらない。外注に出す。だから、そこは分数ではなく、外注の日数と単価が入らないといけない。

「外注は、瀬戸さんが調べるやつだね」

そこで、瀬戸さんの仕事も繋いだ。材料と外注の単価は、瀬戸さんが持っている。過去2年ぶんの発注の記録から、材質と径ごとの単価を出した。材料屋に電話しなくても、前回いくらで買ったかは分かる。

「材料屋さんに、電話しなくていいんでしょうか」

「かけてください」

「かけるんですか」

「かけます。ただ、電話する前に、いくらのはずかが分かっているほうがいいと思います」

瀬戸さんは、少し考えてから、うなずいた。

「そのほうが、話が早いです。いくらですかって聞くより、前回この値段でしたよねって聞くほうが」

「値上がりしていたら」

「そのときは、なんで上がったんですかって聞けます」瀬戸さんは言った。「いままでは、それも聞けなかったので。言われた値段が、高いのか安いのか、分からなかったんです」

材料の単価が出るようになって、変わったことがもう1つある。

引き合いの段階で、材料の納期が分かるようになった。

「これ、大きいです」瀬戸さんは言った。「うち、材料が来ないせいで納期が延びることがあるので。最初から入れておけば、無理な納期を約束しなくて済みます」

六 「これ、わたしの手だね」

12日目に、入江さんが自分で1件を通した。

新しい引き合いだった。産業機械のブラケットで、数量は30個。図面はA3で2枚。

入江さんは、図面に丸を3つ書いて、画面に工程を入れていった。つかみ替え2回。穴が4か所。数量30。

7分で、数字が出た。

1個あたり33分。

入江さんは、その数字をしばらく見ていた。それから、画面の下のほうに出ている根拠の行を、上から順に読んだ。

「これ、去年の8月のやつだね」

「同じ形の品番が、その月に出ています」

「覚えてるよ。あれ、面倒だったんだよ。……そうか、31分かかってたのか」

入江さんは、画面を見たまま、低い声で言った。

「これ、わたしの手だね」

「はい」

「本の数字じゃなくて、わたしがやった数字だ」

入江さんは、そこで少し黙った。

「20年、あの本の数字から引き算してたんだよ。頭の中で。……その引き算が合ってたかどうかを、いま初めて見た」

「合っていましたか」

「だいたい合ってた」

入江さんは、そう言って、少し笑った。

「だいたいね。外れてるのは、小さい数の仕事だけだった」

「入江さん。この33分、直しますか」

「直さない」

入江さんは、首を振った。

「これでいい。わたしが直したくなるのは、たいてい安く見たいときだから」

「安く見たいとき」

「取りたいときね。そういうときは、頭の中で2分くらい削るんだよ。誰にも言わずに」

入江さんは、画面を指した。

「これ、削れないでしょう。削ったら、削った理由を書かないといけないから」

「書きたくないですか」

「書きたくないよ」入江さんは笑った。「取りたいから安くしました、なんて書けないでしょう」

その見積もりは、その日のうちに出た。

引き合いが来てから、4時間だった。

30個で、単価は前の年に同じような仕事を出したときより、1割高かった。

取れた。

「なんで取れたんでしょうね」

北島さんが、少し不思議そうに言った。

「高かったのに」

「早かったからだと思います」

「それだけですか」

「あと、根拠を聞かれたときに、答えられたからだと思います」

北島さんは、そこで思い出したように言った。

「そうだ。先方の購買の方に聞かれたんですよ。この単価の根拠はって。……いつもなら、そこで詰まるんです」

「今回は」

「うちの実績で、この形の品番は1個31分かかってます、って言いました。そうしたら、向こうが黙って」

北島さんは、湯呑みを持ち上げた。

「そのあと、分かりましたって」

七 断れる会社

5月の連休が明けてから、もう一度寄った。

瀬戸さんが、引き合いの記録を見せてくれた。4月に入ってからの分だ。

引き合い9件。うち、その日のうちに回答したのが6件。翌日が2件。3日かかったのが1件。

「3日の1件は」

「熱処理の外注が新しいところだったので、電話をかけて折り返しを待ちました」

「取れたのは」

「9件のうち4件です」

瀬戸さんは、そこで少し声を落とした。

「あと、2件はお断りしました」

「断ったんですか」

「社長が」

北島さんは、応接室でその話をした。

「断ったんです。数量が5個の仕事で」

「5個ですか」

「はい。図面を見て、入江が工程を入れて、7分で数字が出ました。1個あたりの段取りが乗るので、うちが出せる値段だと、たぶん相場の倍でした」

北島さんは、湯呑みを両手で持っていた。

「それで、その場で言ったんです。この数量では、うちはお受けできませんって」

「電話でですか」

「電話でです。引き合いをいただいた、その電話で」

北島さんは、湯呑みを置いた。

「1年前は、言えませんでした。断る理由が、自分の中に無かったので。……なんとなく高いな、と思っても、それが本当かどうか分からないから、とりあえず3日もらって、それから断ってました」

「その2件は」

「断って、気持ちはどうでしたか」

「怖かったです」

北島さんは、即答した。

「うち、仕事を選べる立場じゃないので。断ったら、次から声がかからないと思ってました」

「実際は」

「1件は、それきりです」

北島さんは、そこで少し笑った。

「もう1件は、先週また電話がありました」

「また」

「別の図面で。今度は80個です。……あちらの担当の方に言われました。あんなに早く、できませんって言ってくれた会社は初めてだって」

わたしは、その話を聞きながら、去年の4月にこの応接室で聞いた言葉を思い出していた。

うちの会社のことを、わたしがいちばん知らないんです。

「北島さん。1年前に、利益がどの仕事から出ているのか分からない、とおっしゃっていました」

「言いました」

「いまは、いかがですか」

北島さんは、少し考えてから答えた。

「全部は分かってないです。原価の計算は、まだしてないので」

「はい」

「でも、どの仕事で損してるかは分かりました。数の少ない仕事です。あれを断れるようになっただけで、全然違います」

北島さんは、窓の外の工場を見た。

「あと、これは数字の話じゃないんですけど」

「はい」

「うちが何分で作れる会社なのか、わたしが言えるようになりました」

応接室を出て、工場を抜けた。

3番機の前に、入江さんが立っていた。自分でやっているのではない。萩野くんが段取りを替えているのを、少し離れたところから見ている。

「入江さん」

「ああ」

「あと1年ですね」

「11か月」

入江さんは、即答した。1年前と同じだった。

「数えてらっしゃるんですね」

「数えてるよ」

入江さんは、腕を組んだ。機械の音が一段低くなって、削りはじめたのが分かる。萩野くんが、扉の外で肩を落とした。終わったという合図だった。

「あんたさ」

「はい」

「去年の6月に、3日ついて歩くって言われたよね」

「言いました」

「あのとき、わたし、何をされるんだろうと思ってたの。パソコンを持ってきて、何か入れられるんだろうなって」

入江さんは、こちらを見ずに言った。

「そしたら、ずっと後ろ歩いてるだけだったからね。何なんだこの人はと思ってたよ」

「よく言われます」

「うん」

入江さんは、少し笑った。それから、こう続けた。

「わたしね、この工場を、わたしがいなくても回る工場にしたかったわけじゃないの」

わたしは、その言葉を待った。

「そんな立派なこと考えてないよ。ただ、辞める日に、引き継ぐものが自分の頭の中にしかないのは、格好悪いと思ってた。それだけ」

入江さんは、腕をほどいた。

「いま、だいぶ外に出たね」

3番機のほうで、萩野くんが顔を上げた。こちらに気づいて、手袋のままの手を軽く上げる。

入江さんも、片手を上げた。

残ったもの。 原価の計算は、まだできていない。1件の仕事で、最後にいくら残ったのかは、いまも締めてみないと分からない。工場は34人のままで、若手は萩野くん一人だ。そして、入江さんは11か月後にいなくなる。

それでも、去年の4月にこの会社を回していたものは、いくつか外に出た。

置き場の柱に、ボタンが4つ。検査場の棚に、214枚から選ばれた写真。工程の順番を決める11個の条件が書かれた紙は、入江さんの作業服の胸ポケットから、萩野くんのロッカーへ移っている。

車を出すとき、事務所の窓から瀬戸さんが手を振った。

その横で、萩野くんが電話を取っていた。受話器を肩と耳で挟んで、右手でメモを取っている。1年前に、瀬戸さんがやっていた持ち方だった。

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