【#1】「うちは、頼む側じゃないので」 ─ ある金属加工会社の、7時の事務所

目次

この話について

会社:常盤製作所/社員34名/内陸の工業団地/金属加工(板金・溶接・機械加工)の多品種少量/社員の平均年齢49歳

困っていたこと

  • 注文の入口が2つある。FAXが3台と、メールに添付されたPDF。同じ取引先でも、担当者によってどちらで来るかが違う
  • 生産管理に打ち込むのは1人。朝6時50分から8時40分まで、毎日1時間50分。1日に40枚から60枚
  • 朝に来た注文が、実際に工場の作る順番に載るのは昼前。読み違えると、品番の違うものを作ってしまう

一 「うちの会社のことを、わたしがいちばん知らないんです」

内陸の工業団地だった。同じ形の建屋が20棟ほど並び、どれも壁が灰色で、屋根に同じ換気扇が回っている。道沿いのケヤキは芽吹いたばかりだった。4月の初めだ。

常盤製作所株式会社。図面をもらって、鉄やステンレスを曲げたり削ったりする。同じものを何万個も作るのではなく、いろいろなものを少しずつ作る会社だ。

応接室のテーブルに、部品のサンプルが7つ並んでいた。曲げた鉄板と、削り出した円筒。

北島修さん、44歳。常盤製作所の社長。白いワイシャツにネクタイを締め、その上から紺の作業服を羽織っていた。

わたしは、いちばん手前の部品を持ち上げた。思っていたより、ずっと重かった。

「地元の銀行に12年いました」北島さんは言った。「父が倒れたと聞いて、34歳のときに戻ったんです。3年前に社長になりました。創業は48年前。父が一人で始めて、いま34人です。平均年齢は49です」

「先に、いちばん困っていることを言ってもいいですか」

「お願いします」

「うちの会社のことを、わたしがいちばん知らないんです」

わたしは、顔を上げた。

「決算書は読めます。銀行にいたので。この10年で取引先を2社増やしましたし、一人も辞めさせていません。それでも、うちの利益がどの仕事から出ているのかが言えない。8億の売上で去年は黒字でしたが、どの品番で稼いで、どの品番で損しているのかが分からないんですよ」

「原価の計算をされていない、ということでしょうか」

「それもあります。でも、もっと手前だと思います」

北島さんは、窓を指した。

「あの中で、いま何がどこまで進んでいるのか。わたし、知らないんです」

「ご存じの方は」

「入江が知っています。あの人だけが」

工場長の名前だった。入江誠さん、62歳。この会社に38年いる。

「あの人の机に、受注のFAXが積んであるんですよ。それを入江が並べ替える。その並び順が、うちの作る順番です」

「その、机に積んであるFAXですが。あれは、どうやってこの会社に入ってきますか」

北島さんは、質問の意味を測りかねた顔をした。

「……FAXです。あとは、メールに添付でも来ます。注文書のPDFで」

「両方ですか」

「両方です」北島さんは、そこで少し眉を寄せた。「そういえば、なぜ両方なんでしょうね」

「工場の中を見せていただく前に、3日、そこを見せていただけますか」

「工場じゃなくて、ですか」

「工場の中で何がどの順番で動くかは、そこで決まっているようなので」

北島さんは、そこで少し早口になった。

「先に言っておきますけど、首を切る話ではないんです。人が採れないので。この5年で、若いのは一人しか入っていません」

上田健太といいます、と名刺を出した。肩書はFDE。フォワードデプロイド・エンジニアの略で、よその会社の中に入り、そこで見たものを、その場で道具にする仕事だ。

「明日、いちばん早い方より前にうかがいます。何時ですか」

「……瀬戸が6時50分ですね。生産管理です。20年います。うちの注文は、全部あの人が打っています」

二 7時の事務所

4月の工業団地は、朝がまだ冷える。7時前の舗装の上に、うっすらと霜が残っていた。

6時45分に着くと、事務所の窓がもう明るい。停まっているのは入江さんの車と、瀬戸さんの軽自動車だった。

「早いですね」

「上田さんもですよ」

瀬戸さんは、自分の席のうしろに立っていた。そこに、FAXが3台並んでいる。

1台目は、いちばん古い。感熱紙が出てくる型で、紙が丸まっている。瀬戸さんはそれを1枚ずつ、机の上で逆向きに巻き直して癖を取っていた。2台目は普通紙のFAX。3台目は複合機についているFAXだ。

「なんで3台あるんですか」

「番号が3つあるんです。昔からの番号と、あとから引いた番号と、複合機を入れたときの番号です。どの番号にかけるかは、お客様の名刺で決まるので」

「1つにまとめることは」

「できないです。20年前の名刺を持ってらっしゃる方がいるので」

6時58分。瀬戸さんはパソコンを開いた。受信箱に、注文書のPDFが添付されたメールが並んでいる。それを上から順に開いて、印刷ボタンを押していく。

「メールのほうも、印刷されるんですね」

「印刷します。並べないと分からないので」

刷り上がった紙を、FAXの紙と一緒に机に広げる。この時点で、机の上に42枚あった。

そこから、打ち込みが始まった。生産管理のシステムは20年もので、青い背景に白い文字が並ぶ。瀬戸さんは紙を左手で押さえ、右手だけでキーを叩いていく。品番。数量。納期。単価。ロット番号。

速い。1枚に2分もかかっていない。

だが、ときどき手が止まる。止まって、紙を持ち上げて、目を近づける。斜めにして、光に透かすこともある。それからまた打つ。

わたしは、その止まった回数を数えた。42枚のうち、11回だった。

8時40分に、42枚が終わった。1時間50分だった。

「毎日ですか」

「毎日です」瀬戸さんは、肩を回した。「多い日は60枚あります」

「そこから、工場へは」

「打ったものを一覧で印刷して、入江さんの机に置きます」

入江さんはそれを並べ替えて、作る順番を決める。だから、朝いちばんに来た注文が工場の順番に載るのは、その日の午前中の終わりごろになる。3週間ぶん記録すると、平均は11時40分だった。同じ3週間で、1日あたり平均48枚。打ち込みは月にすると40時間になる。

3日目に、その日の分を取引先ごとに分けてみた。分けているうちに、妙なことに気づいた。同じ会社の名前が、FAXの山にもメールの山にも入っている。

「これ、両方で来るんですか」

「担当の方が違うんです」

瀬戸さんは、2枚の紙を並べた。同じ社名で、書式も同じ。違うのは、下の担当者名だけだった。

「あちらの購買に3人いらして、お一人だけFAXなんです。60を過ぎた方で、ずっとそうされてるので」

「その方に、メールに変えていただくことは」

瀬戸さんは、紙を揃える手を止めた。

「言えないです」

「難しいですか」

「そうじゃなくて」

瀬戸さんは、一度こちらを見た。

「うち、頼む側じゃないので」

その言い方は、卑屈でも、投げやりでもなかった。事実を1つ言っただけ、という声だった。

その日の夕方、北島さんにも同じことを聞いた。社長も、即答だった。

「言えませんね。3年前に一度その話をして、検討します、と言われて、それきりです」

北島さんは、指を1本ずつ折った。

「様式が変えられない。番号が減らせない。単価が上げられない。内示が動く。……銀行にいたころは、こういうのを『非効率』って書いてたんですよ。稟議に。いま思うと、あれは何も見てない言葉ですね」

もう一つ、瀬戸さんに嫌なことを聞いた。

「打ち間違えたことは、ありますか」

「あります」瀬戸さんは、隠さなかった。「去年、3件あります。品番を1文字読み違えて、違うものを作りました。作り直しで、1件12万くらいだと、入江さんが計算してくれました。わたしには、いくらかかったのか分からないので」

三 打つのを、なくします

作るものは、はっきりしていた。

入口を、1つにする。

FAXをやめる話でも、メールに揃える話でもない。どちらで来るかは取引先が決めることで、この会社には決められない。決められないなら、来たあとを1つにするしかない。

紙は残る。瀬戸さんは印刷を続けてもいい。ただ、打ち込みは、なくなる。

瀬戸さんが青い画面に打っているのは、品番・数量・納期・単価・ロット番号の5つだ。5つとも、目の前の紙に書いてある。紙にあるものを、人が指で写している。そこは、機械が拾える。

FAXは複合機1台で受けて、届いたものが1つのフォルダへ自動で入るようにする。メールに添付されたPDFも同じフォルダへ入れて、そこから5つを読み取り、打ち終わったあとと同じ形で一覧に並べる。番号は3つのまま残す。減らすのは、受ける機械のほうだけでいい。

分からなかったのは、読み取ったものをどうやって生産管理へ渡すかだった。触らないし、入れ替えないと決めている。棚の取扱説明書をめくると、外から受注を取り込む口が1つ付いていた。20年、一度も使われていない。作った会社に電話をして確かめた。動いた。

瀬戸さんが一覧を見て、合っていれば「これでいい」と押す。押した行だけが、その口から入る。

打つかわりに、見て、押す。

その説明を、瀬戸さんにした。瀬戸さんは、最後まで黙って聞いていた。それから、「分かりました」と言った。

翌日から、瀬戸さんの様子が変わった。挨拶は返ってくる。聞いたことにも答えてくれる。ただ、こちらから話しかけないと、何も言わなくなった。前は、机の横を通るたびに「上田さん、これ見てください」と紙を出してきた人だ。

3日、そのままだった。

2日目の昼に、若い社員が弁当を持って隣に座ってきた。萩野翔太くん、27歳。製造4年目。この5年で入った、たった一人の若手で、その次に若い人とは20歳離れている。

「上田さん、瀬戸さんと何かありました?」

「たぶん、ありました」

萩野くんは、それ以上聞かなかった。ただ、こう言った。

「瀬戸さん、6時50分に来る人ですよ」

4日目の夕方、事務所に2人だけになってから、聞いた。

「瀬戸さん。わたし、何かまずいことを言いましたか」

瀬戸さんは、画面を見たまま、しばらく黙っていた。それから、マウスから手を離した。

「わたし、20年、この会社の注文を全部打ってきたんです。毎朝、いちばんに来て。それが、わたしの仕事なんです」

瀬戸さんは、机の上の紙の束に手を置いた。

「打つのがなくなったら、わたし、何をすればいいんでしょう」

わたしは、その場では何も言えなかった。

「すみません。困らせるつもりじゃないんです」瀬戸さんは、笑おうとした。「機械のほうが速いのは、分かってるので」

「速くはないです。読み取りは速いですが、間違えます」わたしは言った。「わたしは、それを瀬戸さんに直してもらうつもりでいました。ただ、その言い方をしていませんでした」

その夜、宿でノートを開いた。わたしは、この人の仕事を「1日1時間50分の打ち込み」と書いていた。時間を測り、枚数を数え、間違いの件数まで数えた。測れるものを全部測って、測れないものを1つも見ていなかった。

去年3件の読み違いがあった、と瀬戸さんは言った。1日48枚、年間で1万2千枚のうちの3件だ。

残りの1万1997枚は、なぜ間違えなかったのか。

四 打ちながら、何を見ているか

翌朝、6時45分に事務所へ行った。瀬戸さんは、いつもの位置で、感熱紙の癖を取っていた。

「瀬戸さん。今日は、打つのを見せてください」

「昨日も見てましたよ」

「見てました。でも、聞いていませんでした。打ちながら、何を見てらっしゃいますか」

「何を、って」

「昨日、手が止まったところが11回ありました。全部、紙を持ち上げて、目を近づけてらっしゃいました」

瀬戸さんは、キーから手を離した。

「……見てますね、確かに。なんだろう」

その日の分を打ちながら、思い出したときに口に出してもらった。1日かかった。

  • 「これ、数量がいつもの3倍です。多いときは、電話で確かめます」
  • 「この納期、この会社にしては短いです。何かあったのかもしれません」
  • 「枝番が変わってます。図面が変わったってことなので、材料が違うかもしれません」
  • 「単価が前回と違います。これ、あとで揉めるやつです」

1日ぶんを録音させてもらい、文字に起こして、AIにまとめさせた。似た言い方をひとまとめにすると、21個になった。瀬戸さんは、印刷したその紙を見て、7つに線を引いて消した。

「金額の大きさは、見てません。大きい注文でも、いつもの会社なら普通に打ちます」

そして、4つ足した。

「あの会社の、金曜の夕方に来るFAXは、だいたい急ぎです」

「うちが1回断った品番が、また来ることがあります。あれは、値段の話が終わってないことが多いです」

最後の1つを言うとき、瀬戸さんは少し笑った。

「送り状の手書きの字が、いつもの人と違ったら、見ます」

「字で分かるんですか」

「分かります。20年見てるので」

条件を書き取ったのは、わたしではなかった。2日目から、萩野くんが横に座っていた。入江さんに「朝の1時間、事務所を見てこい」と言われたのだという。瀬戸さんが何か言うたびに、萩野くんがノートに書く。

「瀬戸さん、いまの、もう1回言ってください。『あとで揉めるやつです』のところです。何を見てそう思ったんですか」

瀬戸さんは、萩野くんに向かって説明を始めた。わたしに話すときより、ずっと具体的だった。

3日目に、萩野くんがわたしに言った。

「これ、僕が聞いておいたほうがいいですよね。上田さん、いなくなるので」

残ったのは、18個だった。

「瀬戸さん。打つのは、やめてもらいます」

「はい」

「見るのは、やめないでください。この18個は、機械には作れません」

瀬戸さんは、紙を受け取って、上から下まで読んだ。

「これ、わたしが言ったことですか」

「全部、瀬戸さんが言ったことです」

「……こんなに、考えてたんですね」

五 読めないものは、読めないと出す

フォルダに集まったのは、4月の1か月で1,489件だった。

先に消えたのは、感熱紙のFAXだった。3つの番号は生きているが、受けるのは複合機1台になる。毎朝、丸まった紙を1枚ずつ巻き直していた、あの作業がいらなくなった。

「これ、電源、落としちゃっていいんですか」

瀬戸さんは、1台目の前でしばらく立っていた。

「番号は生きてます。この機械だけです」

メールのほうは、差出人だけでは決めない。中を見て、注文書かどうかを確かめてから入れる。請求書や、図面の差し替えが混ざるからだ。

読ませ方も、1つだけ決めた。書式を教えない。取引先ごとに違うし、同じ会社でも古い様式と新しい様式が混ざっている。過去1年ぶんの注文書を渡して、どこに何が書いてあるかは、こちらからは言わなかった。

そのうえで、作りながら決めたことが2つある。

1つ目。読めなかったものは、「読めません」と出す。読み取った文字には、どれくらい確からしいかの数字が1つずつ付いてくる。品番・数量・納期の3つは、1文字でもその数字が下がったら、欄ごと空にする。無理に読ませない。空欄のある紙は、そのまま瀬戸さんに回る。

2つ目。読み取ったものに、印をつけた。瀬戸さんの18個に引っかかった行が、赤い枠で出る。数量がいつもの3倍。納期が短い。枝番が違う。単価が前回と違う。比べる相手は、生産管理から抜いた過去1年ぶんの注文だ。

一覧は、こうなった。上に、赤い枠のついたものと、空欄のあるものが並ぶ。下に、何もついていないものが並ぶ。やることは、上から見る。それだけだ。

そして、瀬戸さんが「これでいい」と押した行だけが、20年使われていなかったあの口から生産管理へ入っていく。押していない行は、1件も入らない。

最初の3日で、「読めません」は7枚出た。7枚とも、手書きの走り書きだった。数量の欄に「20 → 30」と書いて、20のほうに二重線が引いてある。そういう紙だ。

「これ、わたしでも迷います」瀬戸さんは笑った。「電話しますね、これは」

その7枚を、萩野くんが引き取った。青い画面を開いて、指2本で打ち始める。瀬戸さんの半分の速さだったが、間違えなかった。

「これ、萩野くんに全部やらせたらどうですか」

わたしがそう言うと、瀬戸さんは首を振った。

「電話は、わたしがします。読めない紙を送ってこられるお客様は、だいたい決まってるんです。その方に『読めませんでした』と言うのは、20年やってるわたしが言ったほうがいいので」

例によって、できていないところを隠さずに毎日見せた。 3週間で、直しは27回入った。いちばん多かったのは、印の出しすぎだ。

「これ、全部に印がついてます」

4日目に、瀬戸さんが言った。60枚のうち41枚に赤い枠がついていた。

「多いですか」

「多いです。全部に印がついてたら、印がないのと同じです」

条件のうち3つを外し、2つは幅を変えた。「いつもの3倍」を「いつもの3倍、かつ、その会社では過去1年で一度もない数量」にした。印は、1日に4枚から7枚になった。

「これくらいなら、全部見られます」

六 300か、800か

11日目の朝だった。瀬戸さんの画面の上のほうに、赤い枠が1つ出ていた。

数量 800

「これ、800じゃないです」

瀬戸さんは、その行を見て、すぐに言った。

「そうですか」

「この会社、800も頼んでこないです。いつも200か300です」

瀬戸さんは、印刷した紙を手に取った。目を近づけて、裏から光に透かす。

FAXの紙だった。数字が潰れている。3の上の輪と下の輪がくっついて、8に見える。

瀬戸さんは、電話をかけた。3分で終わった。

「300でした。800で流したら、材料を5倍取ってました」

わたしは、その場で確かめた。AIは、この紙を「読めない」とは判定していなかった。はっきり8に見えると判断していた。潰れた3は、字の形としては8とほとんど同じだ。

つまり、読み取りの精度をどれだけ上げても、この1枚は取れない。

「印がついてなかったら、どうでしたか」

「気づかなかったと思います」

「打ってらしたときは、気づいてましたよね」

「打つときは、字を見てるので」

瀬戸さんは、画面の「800」を指した。

「これ、字じゃないんです。もう数字になっちゃってるので、潰れてるとか、かすれてるとかが、分からないんです」

人が打つとき、目に入っているのは数字ではなく、字だ。かすれ、傾き、書いた人の癖。機械が読んだあとの数字には、それが残っていない。だから、読み取りを人にやらせるより、読み取ったものを疑う理由を人に渡すほうがいい。

18個の条件のうち、この1枚を拾ったのは「その会社では過去1年で一度もない数量」だった。字がどうかは、条件に1つも入っていない。潰れた3を見つけたのは、字を読む力ではなく、その会社を20年見てきた記憶のほうだった。

「瀬戸さん。この18個、誰が引き継ぐんでしょうね」

瀬戸さんは、萩野くんのほうを見た。その日の「読めません」の3枚を打っている最中だった。

「あの子ですかね。時間はかかります。でも、わたしのときは、教えてくれる人がいなかったので」

その日、瀬戸さんの提案でもう1つ足した。赤い枠のついた行を開くと、FAXの紙のその部分が、そのまま画像で出るようにした。数字ではなく、字のほうが見える。

「これ、あったら早いです」瀬戸さんは言った。「透かさなくて済むので」

七 4月の終わり

連休が明けて、4月の終わりに寄った。

工業団地のケヤキは、もう葉になりかけていた。駐車場に着いたのは7時50分で、瀬戸さんの車は、そのすぐあとに入ってきた。

「遅くなりました」

「遅くないです。始業の10分前です」

瀬戸さんは、鍵を回しながら笑った。

「6時50分に来なくてよくなりました。……20年ぶりです」

事務所に入ると、画面の上に赤い枠が5つ並んでいた。瀬戸さんは上から順に見ていく。1つ目は納期が短く、電話をかけた。2つ目は枝番が変わっていて、図面を確かめに行った。残りの3つは、見ただけで「これは大丈夫です」と言って、下に落とした。

35分だった。打ち込みの1時間50分が、確かめる35分になった。

注文が工場の順番に載る時刻も、また3週間ぶん記録した。11時40分だったものが、8時20分になっていた。

入江さんに聞くと、朝が変わったと言った。

「たいしたことじゃないよ。ただ、朝いちで貼る紙が今日の紙になったのは、大きいね」

北島さんに、その2つの数字を持っていった。

「注文の入口が、2つあったんですね。うちの都合じゃなくて、お客様の都合で」

北島さんは、表を置いた。

「これ、うちが古いからだと思ってたんですよ。FAXが3台もあるのは、うちがだらしないからだと。……そうじゃなかったんですね」

「3台とも、お客様の名刺に載っている番号です」

「名刺は、こっちが配ったものですけどね」

北島さんは、そう言って笑った。

帰る前に、瀬戸さんの席に寄った。画面には、印のついていない行が45件、静かに並んでいた。

「これ、見なくていいんですか」

「見ないです」瀬戸さんは言った。「見ないって決めるのが、いちばん怖かったんですけど。1か月、こっそり全部見てました」

わたしは、思わず瀬戸さんを見た。

「45件、全部ですか」

「全部です。印がついてないほうに、間違いがあったら困るので。……1件もなかったです。だから、やめました」

瀬戸さんは、マウスを置いた。

「これ、見るのが仕事なんですね。打ってるときより、疲れます。でも、こっちのほうが、仕事っぽいです」

その横で、萩野くんが赤い枠のついた1件を開いていた。

「朝の印は、萩野くんが先に見ることにしました」瀬戸さんが言った。「昨日は、5件のうち4件、自分で終わったそうです」

「1件は、瀬戸さんに聞きました。単価のやつです」

「あれ、聞いてくれてよかったです。あの会社の単価は、去年の話が残ってるので」

朝の入口が、2人になっていた。

残ったもの。 注文は、朝のうちに工場の順番へ載るようになった。入るところまでは、きれいになった。

だが、入ったあとは、何も変わっていない。工場の中でいま何がどこまで進んでいるかを知っているのは、相変わらず一人だけだ。

帰り際、工場を抜けた。通路の途中で、北島さんが入江さんに何か聞いていた。

「入江さん。丸和さんの分、どこまで行ってる?」

入江さんは、手に持っていた紙を脇に挟んで、工場の奥へ歩いていった。

わたしは、そこで時計を見た。戻ってきたのは、4分後だった。

「溶接まで来てる。あと2日」

北島さんは礼を言って、事務所へ戻っていった。

わたしは、通路に立ったまま、いま見たものを書いた。

朝の1時間50分は、消えた。

この毎日の現場確認の4分は、まだ誰も数えていない。

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